2010年12月16日木曜日

大分から

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


大分に帰ってきて、6日経ちました。
こんなに大分でゆっくりするのは11月の連休の時期ぶりです。


そして、今は少しほっとしたのか風邪を引いています。
風邪の引き始めは、いつも呼吸器にくるのですが今回も肺に。

肺は悲しみや失望を受けとめてくれる臓器だと聞くので
風邪と一緒に肺の中にたまった不要なものがきれいになるといいな
と思って、やさしく養生しています。


ほんとは今日は、別府の劇団「まぜくる」の稽古に参加する予定だったけど
大事を取ってお休みです、とっても残念。。

「まぜくる」は、老若男女、障害者の人も、外国の人も
垣根を超えて「まぜくる」になって表現してみようという集団。
http://jiritsu.junglekouen.com/c15729.html

実際に参加してみると
すべてのことにおいて垣根があるのは
自分の外ではなく内側なのだな
みんな何も変わらない同じ心の通った人間なんだなと
実感できて、すてきだなと感じます。


それから今週末の土曜日は、大分でワークショップです。
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=395

それまでに、風邪が抜けてくれますように、と祈りながら
体調を観察しながら、色々な養生の実験をしています。


来週はまた東京に出て、火曜日は大学で補講なので
風邪が、のんびり休養を自分に許可してくれたようで
なんだかとても面白いです。


無理しすぎずに、今必要なことだけおやりなさい。
そう体から語りかけられているようで
忙しさの中から、ふと我に帰る体験です。


みなさんも、どうぞ心身ともに温かく
元気に毎日を過ごせますように
大切になさってくださいね。


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2010年12月6日月曜日

果樹ある生活を夢見る

行き詰ったり、落ち込んだときに
そのことばっかり考えてると余計に落ち込んじゃうから
現実逃避かもしれないけど、果樹ある生活のことを考えます。

庭があって、果樹があって、野菜やハーブも植えて
うじゃうじゃにして雑草とも共生しつつ土壌も豊かにして
コンポストも作って、虫や鳥とも共生しつつ
日々のお手入れや、四季の移り変わりを愛でる。。

広すぎたら手が回らないかもしれないけど
普通に家の庭だったら
広いくらいでちょうどいいのかもしれないし。

いちじくやベリー、柿や杏や梅がなったら
ジャムやドライフルーツやお菓子やパンを作ろう。

軒先を眺めながら、お茶をしておやつを食べたり
のんびりおしゃべりしたり、ぼーっとしたり。

雨の降る日も、晴れる日も木々が生きてるのを感じながら
一日一日を過ごせたら、なんだか元気になれそう。

想像だけでもしあわせになれる。
しあわせになれるなら
いくらでも想像をふくらませよう。

パンを焼いたり、パン用に酵母を起こしてみたり
酵母でケーキやお菓子も作ってみたり
みそや香辛料なんかの調味料もつくってみたり
ちょこっと楽しむための果実酒や
薬草茶をつくってみたり。

自然の恵みを存分に感謝とともにいただいて
いのちをつなぐために生かせたらいいな。

心身の養生も、喜びも自然のなかから。

そういうぜいたくをたくさん味わいたい。
手間ひまかける豊かな味わいをいっぱい楽しみたい。

都市にはない喜びを、たくましくなりながら身につけたら
きっと都市に出てきても揺るがなくて楽なのかもしれない。
それが、本来の人間の姿なのかもしれない。

テクノロジーや通信手段も上手に使って
自分の生活の基盤はアナログに保てたら
ずっと心地いいかもしれないな。

ちょっとほころびがあっても
工夫次第で味わいに変えられる
そんな生活を大いに楽しむような
大らかな暮らしを。

土と植物と動物と人間と
それぞれが心地よく居られる暮らしを。

想像するだけで元気になれる。
それが日常になることを夢見ながら
今の自分の手足を動かそう。



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2010年12月4日土曜日

体験から学ぶことは、自分を癒すこと

どこかで自分を責めている自分がいる。
他者という目線が入ると、とたんにその自分が現れる。

いえいえ、わたしはそんな良いものではありません。
いえいえ、わたしはこんなダメなところばっかりなんです。
いえいえ、わたしは何にもできないんです。
いえいえ、わたしはとんでもなく無能なんです。


そうやって挙げ連ねればきりがないほど、
どれだけ自分を貶め、辱め、批判し、強要してきたことだろうか。

それが、過去の記憶に基づく信念体型から
始まってしまっている習慣的&自動的反応パターン。

だんだん、これをやってる最中に
自分でやってることを意識できるようになってきた分
あー、こんなに自分で自分に無能さを強要してたんだ
と気がついてびっくりします。


「今年の汚れ、今年のうちに」って
どこかの洗剤のキャッチコピーじゃないけれど
自分の習慣的パターンも、今そうやってクリーニング中で
新しい自分になる準備をしているんですね。


ほんとに、びっくりするくらい
自分のもう繰り返したくないパターンがデフォルメされて
日常で日々起こっている。

もうイヤー!!!ってならないと
そこから脱するシフトができないから
強烈に自分にショックを与えてくれてる。

もう、ほんと、笑っちゃうくらい。


こないだは、大分の家で
東京に来る前夜食べた水炊きの鍋の残りを出しっぱなしで
そのまま東京に来てしまって腐らせてしまって
当然、夫に電話でめちゃめちゃ怒られてしまった。

それで、あんまりにも自分が情けなくて
ホントだめだなぁとか、どれだけ自分を責めてるか
どれだけ自分を虐げて罰してるか
そんなことに深々と気づいてしまって
そのあまりのインパクトにたくさんの感情が一気に動いて
気がついたらこれでもかと涙が出てきて泣いてました。


リズ・ブルボーの「5つの傷」を読むとわかるのだけど
わたしには「侮辱」の傷があり、自分を侮辱し、相手を不快にさせるような体験を招き
夫には「不正」の傷があり、相手を責め、自分を責めるような体験を招き
そうやってお互いに自分の傷を浮かび上がらせて
それを癒す必要があるんですよと教えあい、学びあっている。


それもわかってきたら、ありがたくて、これまた泣けて
もう色んな思いと感情がごっちゃになって
泣けて泣けて仕方なくて
久々にポロポロ泣いてしまいました。


こういうのも、過去の記憶のクリーニングなんだなぁと
思えるようになってきたのもありがたいこと。。

ホ・オポノポノの考えとしてのクリーニングは
そういう面で、とても理に適っているなと感心しきり。

常に人には救いの道が用意されているのだけど
それを見つけられるよう、目をふさいでいるものをとりのぞく
それがどれだけ大切なことか実感します。


わたしはヒーラーでもなく、セラピストでもなく
(そう感じたり、思ってくださっている方もいらっしゃると思うし
 わたしもそうなりたいと思っていた時期もあるのですが)
アレクサンダー・テクニークを学んできた
ティーチャー(伝え教える人)だから
習慣の認識から誤用をやめて改善していくこと
として認識してしまうのだけど
そのことと自体が生きるうえでの学習であり
自分を癒すことにつながるのだなと感じます。


やっぱり身を持って、痛かったり、ショックも味わいつつ
その経験から実践し、実験し、学んできたことでしか
人に伝えることができないし、説得力をもたないのだと
痛切に感じながら、時間がかかる過程を自分にゆるしています。


同時に、わたしはやっぱり自分を強張らせて
大人のふりをして生きることが出来ない人間だなと
ドロップアウトすることを改めてゆるす許可を出しています。

自分の中に、習慣的に「他の人と同じようであれ」という
社会教育(奴隷教育)が染み付いているので
そのループから抜け落ちないように
社会から「不完全」で「欠陥している」とされないように
自分に強要し、強制しようとするのが
自分のパターンとして強いからです。

だから、何度でも、いつでも、意識的に
それを外していいんだよとじぶんをゆるすことは
大いに必要で、自分に力とバランスを取り戻させることなのです。


自分のどこかで
「わたしには力が無い」
と無力感や失望を感じるとしたら
本心で望まないことを努力するのに
相当のエネルギーが必要で
生きることにもエネルギーが枯渇する事態が発生します。

だからこそ、現代は病気になる人が多い。
それは、病気になる人がおかしいのではなくて
病気にならざるを得ない社会という集合意識があるから。


だから、一生懸命やっていて病気になってしまったら
自分を責めなくてもいいのだと、わたしは伝えたい。

けれども、それは、病気になった社会が悪い
自分以外のものや環境が悪いのだと責めるのも
何の役にも立たないのだ、ということも伝えたい。


責めることは、力を回復する役には立たない。

自分に力(生命力、可能性、バランス、調和)を回復するには
自分を見つめて、習慣的&自動的パターンを知る必要がある。

そこで、役に立っていない、不快を生み出すパターンを見つけ
やめていくと同時に、快を生み出す新しい在り方を身につける。

それを練習していくことでしか、本当の力は回復しないし
時間をかけ、労力をかけて、それをするのがいちばんの近道。


解決方法は、未知に飛び込むことだったり
いちばん不可解なことをうけいれることだったりする。

でも、それが、学ぶということ。

学ぶことは、不可知のカオスに飛び込むことでしか得られない。
そこに飛び込み、混乱と不確かさにまみれて初めて
発見という喜びと、癒しという学習が起こる。


だから、あきらめないで
途方に暮れたときほど、未知に飛び込んでみる。

わけのわからなくなる混乱ほど
コントロールという緊張を手放すいいチャンスはない。

手放した途端、着地してる。


安定するのは、不安定になることをゆるしたときだけ。
不安定をゆるさないかぎり、安定することはありえない。

そう、体の構造も、心も教えてくれてるのを
そろそろ思考もコントロールしたがりをあきらめて
手放してみたらどうなのだろう。


そうやって、それぞれがほどけてくることができたら。。

まずは自分からそれをはじめようと思い、実験しています。


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2010年12月3日金曜日

とことん放牧

まだ自分にゆるせてないことがいっぱいあるなぁと感じる。

わたしはどこまで自分をゆるす気なのだろう。
あまりにも膨大すぎて途方に暮れることもある。
でも、それも今の自分の決めたこと。
途方に暮れてる暇は無い。


自分をゆるすことは、誰かをゆるすことでもある。
それは、同時に過去をゆるすことでもある。

血色がなくなるほどぎゅっと力いっぱい掴んでいた手を離して
手の中に血流が戻ってくると同時に、空という自由を手に触れるような
そんな作業をくりかえしている。

今までどれだけのことにこだわってきたことだろう。
今までどれだけの思いに縛られてきたことだろう。
今までどれだけのルールに囚われてきたことだろう。
今までどれだけ苦しんできたことだろう。

自分をできなくさせてきたのは、自分だ。
自分を無力にしてきたのも、自分だ。
自分を憎み憎まれるように仕組んできたのも、自分だ。


だからこそ、性も根も尽き果ててしまってきたんだね。
そんなに握り締めるためにエネルギーを使ってきたなんて
そりゃ疲れないほうがおかしいっていうもんさ。

だから、からだにそれが出ていた。
かつてあった、めまい、吐き気、頭痛、耳鳴り、痛み、強張り、緊張、凝り。

それは、みんな自分でつくりだしていたもの。
ゆがみも、症状も、苦痛もみんなそう。

もう充分味わいすぎるほど味わってきたから、もういいね。
若いのに、いつも青白い顔して、具合悪くて、倒れていたけど
もう、そんなところからは、もう何も受け取れるものはないよ。

今、ただできることは
残っている痛みや強張りから
メッセージを受け取ること。

そして、手放して見送ること。


心の痛みは、体の痛み。
心のゆがみは、からだのゆがみ。

そんなの偏見だって
ずっと避けて聞きたくなかったけど
実感してみて、ほんとだなぁって今は思える。


すべては自分の傲慢さが生んでいた幻想。
それを信じて酔っていたのがわたしの現実。

もうこれからは、目を覚ましてよく見ていこう。
見たくなかったものも、受け入れたくなかったものも
よく見てみるうちに可愛く思えてくるかもしれない。

最近、虫を可愛く思えるようになったように
見えるものへの感じ方が変わって来るかもしれない。


欲張るのは、自分への愛が足りていなかったからだった。
だから、そんな色んなことが起きていたんだね。

ごめんよ、わたし。
見捨てておいた、わたしが間違ってたよ。
ゆるしておくれ。

それでも、こうしてそばにいてくれた
自分のからだはえらくて、ありがたい。

こんなに愛してくれる存在が居たのに
いつも忘れてしまうのが、傲慢さ。。

からだが自分を愛してくれるように、自分を愛そう。
からだが寄り添ってくれるように、自分に寄り添おう。

そうして、自分全部と愛し、愛されて
トラのバターみたいに、とろけて交じり合って
いっしょくたになれたら
新しい自分が始まるんだろうな。


小競り合いじゃなくて、すなおなやりとりを。
批判的な目線じゃなくて、愛のある見守りを。

自分とそうやって重ねていけたら
きっと世界が変わってくる。


できない、こわいと避けてきたことを
そうやって、ちょっとずつ取り組んでいけばいい。

誰かのやっているように、誰かのような速さで
わたしはやることができないからこそ
ほかの誰でもない自分ができるように
自分のできるやり方とペースを贈り物にして
とことん自分にやらせてあげよう。


それしかできないの?とか
まだそんなことやってるの?とか
外側からの目線はもう気にしなくていい。

それを気にすることは、何の役にも立たない。

ゼロから始める、幼稚なくらいのところからやりなおす。
それができることは、自分へのものすごい贈りものだ。

ただすなおに、自分にできないことを認めながら
そこまで戻っちゃったら戻りすぎじゃない?と思えるくらい
根本の根本まで戻るほど、後の変化はきっと大きい。

その可能性は未知だけど、信じて歩めば
必ず道がひらけるから。


外側をつくることは、早くて立派に思えるけれど
ほんとは、内側からできあがってくるのを待つ方が
ずっとずっとパワフルで可能性が無限大。

信じて待つのは、骨が折れるし、心もくじけそうになる。
でも、そこをこらえて、じっと待つほど素晴らしいものが出来上がる。
生命は、そうやっていつも育まれて生まれてくるのだから。

特別なものほど時間と労力がかかるから
自分にそれをゆるしてみよう。


自分には、そんな価値も時間も労力ない、と思うとしたら
それでは何も成長せず進歩しないことや
既存の型で済ませようと望んでいるのと同じこと。

ままならない現状に引きずられ
コントロールされているところから抜けるには
いったん止まって戻ってみることがいちばんの近道。

馬鹿だと笑われても、阿呆だとののしられても
みんなと信じてるもの、見えてるものが違うのだから
風当たり強くても仕方ない。


大量生産されたひとつとして生きたいのではなく
世界に一人しかいない自分をありのまま生きたいなら
なおさらのこと。

あきらめたら、そこでの進化はもう生まれない。

だからこそ、とことんまでに、自分にやさしく。
外がどんな天気でも、内に秘めてたものを放牧してみる。

時には逃げながら、時にはかわしながら
自分の大切なものをとことんやさしく可愛がろう。

2010年11月24日水曜日

自由に自分を表現する身体になろう

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


気づけばもうすぐ12月!
そして、今はもうサンクスギビングの季節!
一年があっというまで早くて濃くて驚きます。

今年はどんなことがありましたか?
どんなことを喜び、楽しみ、味わいましたか?
どんなことを乗り越え、どれだけがんばってきたでしょうか?


わたしは、今年は自分を知る年となりました。
改めて自分を見つめなおし、受け入れなおし、やりなおしたような
まるで伸びすぎて形が崩れた植栽を剪定しなおすような
そんな年だったなぁと振り返っています。

それぞれの出来事や、それぞれの自分が
差別されることなく、大切にされてよいのだと
初めてそれぞれが尊重されることに出会った年でもありました。


そんな中でも、大きな喜びを与えてくれたもののひとつ
母校の日芸で演劇の生徒に授業を教える機会も
おかげさまで今年で3年目になりました。

3年目の今年の授業は、今までになくリラックスして楽しみながら
わくわくハラハラしつつ実験的でクリエイティブな体験です。

授業で、ゲームをしたり、体操したり、眠ったり
パンを食べたり、ミカンを食べさせあったり、椎の実を味わったり
五感をフル稼働させて、人間について様々な学び方を遊びました。

明日も、また午前中に授業で、課題提出の日でもあります。
形式自由で何でもござれの提出形式なので
何が飛び出すか、飛び出さないで何もなしか、楽しみです。


そんな大学での授業のような自由な時間を
いろんな人にも味わってもらえたらいいなと思って
12月4日(土)10:15~12:45にワークショップをします。

演劇の稽古場によく使われる西新宿の花伝舎という
元小学校の校舎で開催します。

わいわいと動き回りながら、体の使い方を学んで実験したり
五感をつかって子どものように自由さを思い出すエクササイズをしたり
心身を解放して表現する喜びを楽しむ時間を準備します。

あんまり難しいことを考えずに、身体にやさしい運動をしたり
わいわいと自分の内側が喜ぶような遊びをすると思っておいでください。


ワークショップの名前が『AT演劇ワークショップ』となっていますが
人前で演技するように強制することもありません(笑)。

そんなわけで、経験不問です。


師匠も走る忙しい時期とは思いますが
より楽しんで快適に12月を駆け抜けるために
わくわくを感じた方に、ぜひご参加いただけたらな、と思います。




AT演劇ワークショップ

12月4日(土)10:15~12:45 @西新宿・花伝舎 本校舎1-1

参加費:一般 3000円/学生 2000円(当日学生証提示)
(11月30日までにお申込みの方は、500円割引!)

※料金は当日会場にてお支払いください。

お申込:studio.saltia★gmail.com(★を@に変えて)宛に『AT演劇WS申込』のタイトルで
     (1)~(7)の内容をお書き添えのうえお送りください。


(1)お名前(ふりがな)
(2)携帯電話連絡先/携帯メール
(3)PCメールアドレス
(4)ご住所
(5)生年月日
(6)ご職業
(7)ご同伴者のいらっしゃる場合は、その方のお名前
(8)お申込の理由


★このワークショップでは、寝転がったり 体操をしたりと、動き回ります。
腕や脚のつけ根をしめつけない ジャージなどのゆるやかな服装でいらしてください。
(ジーパンやスカート、短いボトムスやタイトな服は避けた方が安心して動けます。)

★寝転がるのに、ヨガマットやバスタオルなどを持参されると快適です。

★水分補給のため、お好みの飲み物をご持参ください。


※当日参加は、事前に確認のお電話をください。
(090-3340-4264 オカナオ 朝8時~)

※3日前以降のキャンセルは、参加費の半額を申し受けます。

※無断キャンセルは、参加費全額を申し受けます。

※キャンセルせずに、代わりの人が参加する場合は
ご一報くださるだけでOKです。


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2010年11月22日月曜日

頭脳を浪費しないで、知性をつかう

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、頭脳を浪費しないで、知性をつかう
という練習をしていました。

というより、結果的にそうなっていたんだなぁ
とさっき気づいて
面白い流れがやってきてるぞ!と
静かに今喜んでいるところです。

なんでそういうことに気がついたのか、というと
思った以上にうまくいく、というのでしょうか
何も思いもしなかったのに流れがスムーズ
という展開がこのところ多いのです。


今までは、思ったようにならなかったりとか
思ったのには足りないけどまぁいいかとか
そういう展開を味わっていました。

頭で予想(心配、不安、期待、予測など)しては
未来をコントロールしようとして
一生懸命がんばっていたんですね。
(まさに、頭脳の浪費。。)

言い換えれば
「~にならないように、これをする」とか
「~は嫌だから、それを避けるためにこうする」とか
行動の動機が否定形から入っていたり
ジャッジ(批判や断定)から始まっていたり
自分の行動の言い訳をしたり
そいういう選択が多かったのです。

それは言ってみれば
かつての周りの大人たちがしていた行動のくせ。
例えば、怒られないように、とか
失敗しないように、とか。

パターン化したその思考と行動が『当然』
と思っている環境に居たので
無意識にわたしもそういう風に
自分を自動的に行動させていました。


でも、それって
自分の使い方の誤ったパターン
誤用なんですね。


望んでいることのために自分を使う
というのが、本来の自分の使い方なら
望んでいないことのために自分を使う
というのは、誤った自分の使い方。

だから、本当は望んでいないことを避ける
ということを動機にすることは
消極的に『望んでいないことを望んでいる』
ということになってしまう。

なぜなら、望んでいることが
『望んでいないことを避けること』であって
その中には望んでいることは一切含まれていない!

むしろ
望んでいないことに一旦出会ってから
それを避ける
ということを望んでいる
というオーダーを
無意識に出してしまっている。

ここは、とんでもなく大きな違い!


と、ものすごいヒントを書いてしまいましたね。

もうここまでで
わたしが何をお伝えしようとしているか
きっとお分かりの方も多いかと思いますが
自分の行動の無意識の動機や
普段何気なく繰り返してる思考のなかに
自分をどう生き、行動するかの手順や
システムとなる信念がプログラミングされていて
それに基づいて自分が自動操縦されています。

だから、自分をどう使っているか
自分全体を総括した使い方を見直すことは
ものすごく大切なことなんですね。


わたしの教えている
アレクサンダー・テクニークは
誤った自分の使い方を気づきとともに認識して
本来の自分の使い方を学習していく方法
なのですが
自分で自分を自在に
気持ちよく使えるように在るために
不要になった古い習慣パターンを脱いで
新たな自分に出会いながら
やさしさをもって自分を育む
可能性のレッスンです。

なのですが、実はよく
アレクサンダー・テクニークは
姿勢や体のことをやるボディワークだよね
とか言われたり
思われたりすることがあるのですが
じつは
体のことだけを取り扱うのではなくて
思い込みの誤用も見つめて
その結果、自分の日常にどう影響するか
動き方や心身の反応パターンなど
多岐にわたって観察し
それを
自分が本当に心地よく
心と体と自分のすべてが機能し
自分のすべてが一心同体で
自分の動きを満喫できるように
そのしくみを学んで
使えるようになる練習をする
というものなのです。

というのも
アレクサンダー・テクニークでは
人間とは、体も意識も感情も
まるごとで機能する有機体
(オーガニックな存在)である
とみなしているから。

なんだか扱っているテーマが
人間の深遠さだったりして
くらくらしてきちゃいますね。。

わたしも、ここまで書いてみて
よくわからなくなってきたので
ちょっとはじめに戻ります(苦笑)。


そんなわけで、冒頭に書いた
「頭脳を浪費しないで、知性をつかう」
というのも
自分の『考える』という行為における
自分の肉体や意識の使い方の
誤用というエネルギーの浪費を改めて
流れるように快適に使えるような
新しい自分の使い方へ切り替える
ということ。

それはどういうことかというと
すでに使い古された中で考えるのではなく
新しい可能性を受け入れる余地をつくって
やってきたインスピレーションや
発見した『!』についていくということ。

それが、わたしたちに与えられている
本来の知性という機能の使い方
なのではないかなと
このところの流れを味わう中で感じました。

これについては
まだまだ味わいながら探求して
もう少し理解が深まるのを温めたいと思います。
(これ以上、知性についての説明が今は出てこないから。)


というわけで
また『!』がたまって流れ出したら
ここに書いてみたいなと思います。

長くなってしまいましたが
読んでくださり感謝です!

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2010年11月16日火曜日

可能性

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


本日、大分から東京に移動してきました。
バス⇒飛行機⇒電車での合計4時間の移動に
ずいぶん慣れてきました。

思えば、中学生の頃にぼんやりと将来を思い描いては
ノートやスケッチブックなどによく書き出していたのですが
「手に職をつけて、身一つで旅先でも仕事も旅も楽しむ」
なんてことを書いていたのを思い出します。

アレクサンダー・テクニークの教師トレーニング生のころも
海外から旅して東京や各地に教えに来てくれる先生たちや
地方からはるばる学びに来ていたり
地方のクラスまで追っかけて学びに行く
熱意のあるクラスメイトに囲まれていて
いつしか、旅することが身近なことになりました。

そして気づいたら、母校の大学で教える機会を頂いて
夫の仕事で、ハワイ在住を経て
大分在住となったことで、飛行機通勤することに。。

乗り物酔いしやすいから大丈夫か?とか
夫と猫を残して家を定期的に不在にするのは大丈夫なのか?とか
色んな懸念も、家族をはじめ
周りの人たちの協力で何とかます。

わたし一人の力では実現できなかった夢を
母校の大学というバックアップで叶えられる機会を与えられて
わたしはなんて幸せなんだろうと感じると同時に
どうしたらお役目を果たすことが出来るだろうかと試行錯誤中です。

プレッシャーではなく、ただ今のわたしにできることを
できないなりにでも最大限の努力をしていくこと。。

失敗した~・・・と思えて落ち込むこともあっても
上手にできなくてダメぶりを露呈してしまったりしても
思うようになかなかいかなくて焦って不安になったりしても
やっぱりやりたいことが今できているこの幸運とともに
今の自分から始めるしかないし、始めたらいいんだなと
日々気持ちを持ち直しながら生きています。

完璧じゃないけれど、未熟なところ満載だけれど
バランス悪いところも、恵まれているところも
全部まるごとひっくるめて
可能性とともに歩んでいけることは
やっぱりしあわせ。

人と比べてしまうと、自分に批判的になりがちだけど
過去の自分と比べることで、自分の歩みが認められる。

まだのところも、もうこんなにって驚くところも
色んな可能性のバリエーションを味わって
予想も期待も手放して超えていこう。

それが可能性なのかもしれないな
と思うこの頃です。


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2010年11月12日金曜日

落ち込むときは

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、落とし穴に落ちたみたいに落ち込む瞬間があって
なんだろうこれは?としばらく思っていました。

ふだんは幸せで平穏なときが多いのに、いきなりすとんと来るのです。
そして一瞬「?」に囲まれたら、しばらくどーんと重い気持ちを味わうので
おかしいなー、なんだろうなー、と思っていました。

そうしたら、答えがぽんとやってきました。

なんと、人と比べたり、人の目で自分を見てジャッジしたときに
落とし穴にすとーん!と落ちて、真っ暗闇にはまってしまうんですね。


これは、過去の多くの人がやってきたパターンで
いくらやっても何も役に立つことのない無駄な習慣的くせ。
何度も何度も自分がすり減るほど繰り返してきたから、しみこんでるんですね。

だから、気がついたら
「あ、それは過去のパターン。今はもう選ばないよ。」
と、ノーサンキューでバイバーイ!をしちゃいましょう。

何度でも何度でも落とし穴にはまっても
こちらもしつこく、ノーサンキュー!バイバーイ!を繰り返す!


それを繰り返してるうちに、不思議なことに
落とし穴にはまった「ダメダメな自分」が自分だと思っていたところから
ノーサンキュー!バイバーイ!と言ってる方が自分だと気づき始めます。

気づき始めたら、自分が現実をつくっていけるんだ
組み立てていけるんだと力が戻ってきて元気になってきます。


だれかが繰り返してきたくせを知らず知らずに自分に取り込んで
そのうちに自分と同化させてしまう傾向がわたしたちにはあります。

でも、そのことに気づいて意識的に見つめなおすことで
自分と自分ではないものを見分けて、分別できるようになってきます。

そのことが、本当は「大人の分別」って言われるものなのかもしれない
とハッと気づいたら「分別をもちなさい!」と言われるのも
分別できる大人になることも、ステキなことに思えてきました。


本当の分別って、自分に役立つものや助けてくれるもの
喜びを与えてくれたり、元気にしてくれるものを見分けて
そうじゃないものを取り除いていくことができることかもしれませんね。

以前にアレクサンダー・テクニークの恩師で
ワシントン大学演劇学部アーティスト・イン・レジデンスのキャシー
「大人というのは、自分の選ぶことに責任を持てるということよ」
と言っていたのを思い出します。。


落ち込んだり、元気がなくなっちゃったときこそ
ちょっと立ち止まって、自分が本当に望むものを選びなおしたいですね。。

いつもじゃなくても、ちょっとずつできることから。

不調なときは、自分にやさしく励ましながら
ゆっくりじっくり見守りながらいきましょう:)



キャシーから学んだエッセンスを、ワークショップからお届け!

12/4(土)&1/15(土)10:15~12:45 AT演劇ワークショップ@東京・新宿
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=370

12/18(土)16:05~18:30&1/8(土)13:05~15:20 AT演劇ワークショップ@大分
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=371

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2010年11月11日木曜日

教え子たちのすがたはうつくしい

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


今日は大学(日芸)に洋舞コースの生徒の出ている
実習発表のゲネプロ(舞台リハーサル)を見に行ってきました。


今週の授業でも感じたことなのですが、それぞれの生徒の真摯な姿が
すべて見えていなくても、垣間見えただけでうつくしいのですね。
その人の素が見えてくれば見えてくるほど、向こうから光が漏れてくるように
ひとりひとりの可能性や個性が透けて見えてくる。
その姿が、ほんとうにうつくしいな、と感じるのです。

今日のゲネで踊っていたMさんも、踊ることで可能性の光を見せてくれた。
こんなにも雄弁に大胆に活き活きと全身で語ることができる人だったんだ。。
と、ふだんの物静かな様子とのギャップにわくわくしました。

わたしは大分と東京を行ったりきたりで、東京不在のときも多いので
先週の芸祭(大学祭)を見られなかったり、実習発表の舞台を見逃したり
わたしはもったいないことをしているなぁと実感しました。

やはり、生徒の出ている舞台を見に行くのは、すてきなことですね。
作品の出来を超えて、生徒の真摯に表現する姿はこちらへのエールになっている。
そんな風に感じながら、彼らの演技を贈りもののように受け取れる
今のわたしの仕事は、なんとすばらしい幸せな天職だろうと
ただただその幸運にありがたみと感謝を感じます。


わたしも大学時代に舞台に立っていた頃に
お世話になった学校の先生たちや大人の友人や
バイト先の上司や友だちが見に来てくれて
よく「元気をもらったよ」なんて言われていたけど
今になって、そういうことだったんだなぁと理解できました。

演技の良し悪しは観客の人に大きく影響するのはもちろんだけど
友人や知人たちは、それ以上に演技する一途さに心がつながっていたんですね。
ほんとうに温かい目で見守られていたのだと、今更ながらに気づいて
ありがたかったなぁと拝みたい気持ちになってしまうのでした。

そう考えると、ジャッジや前提となる記憶とマインドで舞台を見るか
それとも、ジャッジも前提もなしに心で舞台を見るか
見る人の意図で作品の見え方や感じ方が全く違ってくるんですね。
(その考えは、舞台だけではなくて、状況や人を見るときにも共通ですね。)


親の欲目ではないけれど、教えているよしみを差し引いても
教え子の踊りっぷりはとてもすてきでした。
彼女の振り付けの作品も飽きずに、惹きこまれて見てしまいました。
ほんとうにダンスの神さまに愛されてるなぁと感じます。

本番も納得のいく演技ができるよう彼女たちがチャレンジを楽めますように!


今後の授業やワークショップでも、生徒それぞれがそんな風に
安心して自分の新しいチャレンジを思い切りできるよう
心身のバックアップをしていきたいなと思っています。

よし、わたしも楽しんでがんばるぞー!
みんな、ありがとー!


大学でやっている内容を、ワークショップでもお届け!

12/4(土)&1/15(土)10:15~12:45 AT演劇ワークショップ@東京・新宿
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=370

12/18(土)16:05~18:30&1/8(土)13:05~15:20 AT演劇ワークショップ@大分
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=371


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2010年11月4日木曜日

食べることから

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


すっかり秋から冬支度へと寒さもしんとしてきましたね。
寒くなると、食べ物もおいしいものが増えてきて
食いしん坊には危険な季節です(笑)。

この夏から、食べることの観察をずっと続けてきて
秋になってきたと同時になんだか食べ過ぎる傾向に傾いてきました。
幸か不幸かありがたいことに、わたしはすぐにお腹まわりの様子でわかるので
これはそろそろ食事制限に気をつけてあげないと調子崩すなぁと実感。

とはいえ、ついちょっとの欲張りが度重なると
自分の消化器のキャパオーバーでお腹に色んなものがたまってしまう。
通りがわるくなって(つまり便秘)、お腹が出っ張って
胃も重くなった分だけお腹の満腹感が鈍くなっていって食べ過ぎる。
そしてまたお腹が詰まってしまうと言う繰り返し。

あー、これをやっているから、色んな弊害が出るんだなと自分実験で観察。
身体にはあんまりありがたくないやり方なので、ほんとはしない方がいいけど
そうなってしまったからには、徹底的にそのしくみを観察するのがわたし流。


それぞれの人によって傾向が違うから、万人向けではないけれど
わたしは少し食べれば充分で、消化機能があんまり強くないタイプは
本当はあんまり食べ過ぎない方がいいし、内臓の反応を見つつ食べた方がいい。

わたしは、砂糖と赤身の動物性たんぱくと脂肪、牛乳の取りすぎで
胃腸がダメージを受けて、調子を崩して寝込んでしまうことがある。
でも、生の野菜や果物を中心に食事をすると体調が回復する。

だから、調子を崩すときは、ジャンクフードやお菓子など
量を食べ過ぎることで、簡単に内蔵機能と自律神経が狂ってしまう。

たとえば・・・
砂糖(白)を食べると、頭痛やむくみ、心身のだるさや重さ
冷えや血行不順、欝になりやすくなったりや不安症などの傾向がでてくる。
生クリームや牛肉、トロなどを食べると、消化不良や下痢、吐き気や頭重
めまいなど、乗り物酔いのような傾向がでてくる。

そんな風にして、わたしの身体には合わないよー、って
身体が一生懸命教えてくれようとしている。
もうこればっかりは体質だから、変えようのないことだし
そこまでの不便は感じていないので、身体に素直になることに。


とはいえ、お付き合いで楽しみがあるときは、食べるし
その分あとで調整すればいい。

だけど、スイッチが入ってバランスを崩し続けちゃうと
あとのリカバリーに時間も労力もかかってしまう。
だから、食べる癖や習慣に気がついているって大事だなと思う。

それに加えて、もっと大事なのは、観察しながら冷ややかにジャッジしないこと。
ただ、温かく見守りながら、子犬をほめてしつけるみたいに大事に扱うこと。
自分を責めちゃうと、ドツボにはまって悪循環ループしかねない!
そこから自分を救うのは、自分から自分への愛しかないなぁと思うし
やり直すチャンスを温かく応援してもらえれば、やる気も出ると言うもの。

先日のNHKアサイチでも、ほめ効果について検証していて
ダイエットがうまく行くのはほめることの効果が大きいと発表してました。


何事も、甘やかすのではなく、愛をもってやさしくしつけて育む
そういうやり方が大切なコツなんだなぁと実感します。

まだまだ書き足りないけれど、今日はこのへんで!
読んでくださりありがとうございました:)


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2010年10月24日日曜日

新しい流れへのシフト

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


この二日ほど、とても興味深い流れの中にいました。

昨日は、満月のせいなのか過去のネガティブ思考&感情をレビューした日。
今日は、自分が「こういうものだ」と思っていた過去の枠から外れた日。


今日は、ただ流れにまかせてついていっただけ。

なのだけど、代々木公園での青空ワークショップに
誰も来ないかと思ったら、ワンちゃん連れで参加してもらえたり(初!嬉!)

どんぐりスタンプラリーに参加できたり
シイの実をたくさん拾えたり(食べられる!滋味豊か!)

それで出会ったカワイイ大学生に誘ってもらって
すてきなピクニックに参加させてもらったり

アースガーデンで欲しかったものが買えたり
大好きな友だちにバッタリ会えたり

自分で許可したことに、現実が連動しだしたり。。。


なんだかほんとに
現実って自分が生み出しているんだなぁって
実感することとなった一日でした。


そして、昨日はほんとに、コントラストくっきり!
光と真っ暗闇くらい全く質の違う一日でした。

このところずっと、しあわせなことがどんどん増えていて
毎日もう、今死んじゃったとしても感謝できるくらい満足で
何しても「ありがたいありがたい」って言うおばあちゃん
みたいな心境&日常だったのです。

でも、昨日、ひっさびさに過去の自分の感情が出てきて
あまりのキツさに絶望感まっしぐらだったのですが、ふと
「うわ~、昔のわたしは毎日こんな状態でいたんだ~!」
と思い出して、その感情と今の日常のギャップにびっくり。

わたしもびっくりしながら
怖がる野生動物が落ち着くのを待つかのように
むかしのわたしを追体験しながら労っていました。


じつは、過去のわたしは
生きて死んでいたような状態。

物心ついた頃から無意識のうちに
環境や色々なまわりの大人たちとの関係の中で
自分をまわりの期待に合わせて行動する道具にして
いい子を演じるほど、いじめや事故、パワハラに遭って
学校でも家でも常に緊張している状態でした。

わたしを愛してくれた人はいたのに、それは部分的で
無意識にそれを感じていたわたしは
まるごと受けとめてもらえない=愛されていないのだと解釈して
孤独感と絶望感と疎外感でいっぱいになっていて
自分で自分を責めて、生き埋めにしていたんですね。

だから、ずっと生きていたくなかったし
死ぬほどの勇気も元気もなくて
自分が消えてなくなればいいのに
と、いつも思っていました。
(う~ん、切ない子どもだ。。)

その反面で
人はほんとうは幸せになるために生まれてきたはずで
どんな最悪に思える状態でも
すべてのバージョンの中で今の「これ」がベストだから
今起こってることが現実になってるんだ
という、根拠ない確信を持っていて
どうしたら生きやすくなるんだろう?
どうしたらしあわせになれるんだろう?
そう疑問を抱いて生きてきました。

だから、そのギャップを埋めるために
いつも空想ばっかりしている子どもでした。


思えば、そんな真っ暗ななかでも希望を持って
空想することと、ものを作ることだけが慰めで
そのおかげで創造性が鍛えられて
思考力と言語化での自己防衛が身について
今のしごとにとても役に立っている。。

つらい中を、喜びも見つけながら
ここまでいのちの無事をつなげてくれた
過去のわたしとすべての体験に
感謝と「愛してるよ、大丈夫」のハグをして
もう怖がらなくてもいいんだよって言ってあげられる。

大人になってみて
こんなに色んなものがゆるせるようになってきたよ
みんなそれぞれの精一杯の中で生きてきて
コミュニケーションがうまく行かなかったけど
そこにはちゃんと愛情ややさしさはあって
それがお互いに気持ちいいように表現できなかったんだよ
だから、もう悲しまなくても
自分やまわりを責めて絶望しなくても大丈夫だよ
ただそう伝えてあげられる。


それまで、どうしていいかわからなくて
そういうネガティブなパターンが出てきたとき
その暗さと重さに慌ててパニックになって
思いっきり感情が乱れて大変でしたが
じつはそれって過去のことなんですよね。

感情や思考は時空を超えてしまうので
過去の体験のものであったとしても
それが出てくると
それは今のことなんだ!と錯覚して
ものすごく不安になってしまう。

不安からまたパニックになって
どうしていいかわからなくてつらすぎて
どう表現していいかわからないまま人に当たってしまう。

それが、自分も、多くの人たちも
過去にずっとやってきて
世代を超えて連鎖してきてしまったパターン。


でも、そんなときに一呼吸して
それは過去のことであると気づいてあげることや
そのパターンをお客さんや子どものように客観視して
何も変えようとか、解決しようとせずに
言い分をひたすら聴くことでケアしてあげる
自分内カウンセリングに充分に時間をとってあげるだけで
変わってくる。。

自分のケアが充分じゃないと人のことができないし
自分のケアが不十分なときほど
自分の話や気持ちをただ受けとめてもらうことが必要。

ほんとうに深く癒すケアって
そういうところから始まるもの。。

そして、じつは
こうしてそれが理解できるようになってきたのも
すべては過去の体験があったおかげ。。。

つまり、それは関わってくれた人すべてのおかげでもある。。
そんな、おかげだなんて思えない奴もいっぱいいるよー!
っていうのも、ないとつまらい人生の景色かもしれない。

だれがいい人で、だれが意地悪だったとか
そんなことはどうでも良くて
物語のキャスティングのように
色んなキャラクターがいなければ
彩りに欠けてしまうのと同じことだったりする。

だから、にくたらしい~!嫌い!って思った相手も
実は、欠けてはいけないキャストだったりする。
わかっても、やっぱり苦手!って思うかもしれないけど(笑)
それは人間だから、その感情もスパイスみたいなもの。
ちょっとは刺激がないとつまらないかもしれない。


自分が本当に変わっていきたいとき
どうしても結果を目的にしがちだけど
結果は結果でしかなくて
ほんとの目的は、自分が自分の歩みを楽しむこと。

たとえば
感謝ができるようになることが大切なんじゃなくて
自然と感謝が湧いてくるようになるまで
自分を深くケアしてあげることが
自分の心のフィルターをお掃除することだし
掃除してきれいになるほど
喜びを見つけやすくなるから大切だということ。

そうやって、ご褒美をもらいながら
人はきっと成長していくんだろうな。
それはほんとに魔法みたいなプロセス。


今日のわたしに起こったことも
昨日のわたしが体験したことをただケアして
傷ついていた過去の自分がホッとできたからかもしれない。

内側からホッとくつろげたら
その分だけ新しい可能性を迎えてあげられる。

落ち着けば落ち着くほど
変化を迎える準備ができてくる。

そうやって、どんどん新陳代謝しながら
新しいおもしろい流れに乗っていけるようになっていく。

絶望のときにも、希望につながる道があるって思いたい。
今これからはそういう時代。

無意識に過去のなかに生きることから
クリエイティブに新しい流れとともに生きることへ。

もう間違いは責めなくていい。
失敗するほど賢くなって歩いていこう。
そんな強さを信じて歩もう。


今日も読んでくださりありがとうございました:)


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2010年10月23日土曜日

特別講義・佐藤まいみさんのおはなしを聴いて

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


木曜日の夜、母校の日大芸術学部演劇学科の特別講義で
さいたま芸術劇場プロデューサーの佐藤まいみさんのお話を
聴きにいくチャンスがありました。

佐藤さんは、日本にたくさんのダンスカンパニーを紹介された先駆者。
ラララ・ヒューマン・ステップスやピナ・バウシュのカンパニー、
ウィリアム・フォーサイスやローザス、ヤン・ファーブルなど
前衛的なダンス?演劇?というステージアートを運んでくださった方。

わたしもコンテンポラリーダンスが好きで
ピナやフォーサイスなど見に行ったりしていたけど、
まさかこの方が仕掛け人だったとは!
お話を伺えて光栄でした。

ラララ・ヒューマン・ステップスのグンゼのCMとか
子供の頃に見て印象的だったのだけど、その裏話も聞けてしまって
なんとも微笑ましく、久々に学生気分で勉強になった時間でした。

ダムタイプやヤン・ロワースの作品などの映像を見せてもらって
いまだに見ても新鮮だったり、ぐっときたりして
そんな作品を作ってきた人たちもすごいけど、
それを上演するために関わった人たちもすごいなと
改めて感心してしまうくらい、エネルギッシュでした。


最後の質問の時間での学生とのやりとりも
佐藤さん自身のおはなしも、彼女の人柄やこれまでの歩みを感じられて
何とも好ましくて、自分が何にYESと言うかで生きてこられたからこそ
学生に説得力を持ってお話できるのだなぁと感じました。

大野一雄さんが、パリ・オペラ座で公演されたときに
それまでパリ・オペラ座のバレエダンサーは36歳くらいで定年で
踊ることをやめてしまうことが多かったそうなのだけど
大野さんが踊られたことで、「ダンスはスポーツではなくアートだ」
という視点がヨーロッパのダンサーのなかに生まれるきっかけになった
という話が印象的でした。

ダンスを踊るのではなく、人生を踊る、それがアートだ。
そのことばが、どれだけ多くの人を勇気付け、助けたのだろうと思います。

わたしは演劇のなかに身を置くことはやめてしまって
演劇と言う要素を日常にどのくらい応用できるんだろう?
という方へシフトしてしまったのだけれど
やっぱり演劇の要素に触れるのは心ときめくものがあります。


今年の春先に聴いたBeppu Project企画の講演
サウスバンク・センター芸術監督ジュード・ケリーさんのお話でも
アートは特別なものではなくて、だれもが創造できるもの
基本的人権として、だれもがアートにかかわる権利をもっている
ということばを思い出しました。

まだまだ書きたいことはいっぱいだけれど
今日はひとまずこのへんで。



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2010年10月22日金曜日

自信と気のはなし

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ1日があまりにも濃くて、3日分くらい過ごしている気分です。
というわけで、早寝&昼寝励行して体力温存しています。


さて、そんな体力温存するのにあたって
自分を通して色々観察してみています。

どうなると疲れやすいのか、疲れにくいのか
その傾向と対策といったところでしょうか。

これはきっと固定された正解があるわけでもなくて、
その時々の状態、個々の人によっても違うのだと思いますが・・・。


何をするのでも「やらなきゃいけない」と思うと気持ちが重くなって
自分を動かすのにもたくさんエネルギーが必要なのですが
それとは反対に「やってみたらどうなるんだろう?」と好奇心を持てると
「やってみようかな」⇒「やってみたいな」とやる気が湧いてきて
気持ちが軽くなって、自分を動かすエネルギーも少なくて済みます。

日本語って面白いもので、気の持ちようが気持ちで、
気はchi=エネルギーの流れと訳すことができる。

実体はないんだけど、なんだかそのへんにある感じられるもの=気。

電気、空気、蒸気、気分、雰囲気、景気、気構え、気遣い・・・
日本には気を表現することばがたくさんあって
共通認識としてなんとなく感覚でわかっているものだったりもします。


授業をしていたり、レッスンをしていたりして
「自分に自信がない」とよく聞くことがあります。

わたしもずっとずっと自分に自信がなくて悩んでいたので
そう思ってしまう気持ちにとても共感できるのですが
じつはよくよく考えてみると、じゃあ、自信ってなに?
自信がないって一体なんだろう?と思いました。

今、わたしは自信がないと思うことがとても少なくなってきて
それがなんでかな?と思ったら、そこにヒントがありました。

自信って、自分との信頼関係だ、というのは
以前からず~っと、うすうすわかってはいました。
でも、あたまでの理解で、ことばとして知っているだけだと、
自分と信頼関係があるってどういう状態かわからない。
実際に、その状態を体験してみないと
それがどういうことかわからないんですね。

じゃあ、自分と信頼関係がある状態ってどんなものかというと
ことばで説明すると、疑いがまったく存在しない状態
ということができます。

「えっ?それだけ?」と思われた方も多いかもしれませんが
ほんとうにシンプルなのです。

今、ただここに居る、自分がここに在る。
という、「ただそれだけ」の状態があらわれることなんですね。

「なにも引かない、なにも足さない」という
どこかのお酒メーカーのキャッチコピーみたいですが
まさにそれなんじゃないのかな、と思うのです。


たぶん、それが現れるためには
自分を疑うという、余計なものを省いていくことで
初めて信じるという状態が現れることができるし
信じるという状態そのものが「今ここにあること」という
存在するシンプルさ、佇まいになっていくんだろうなと思います。

そういうわけで、身体の在り方でもあるし
それは同様に気の持ちよう、気の使い方でもあって
茶道のお稽古や太極拳などに共通する
東洋の身体の使い方の「こつ」の部分でもあるなと思うのです。

同時に、舞台に立ったときのピークパフォーマンスのときにあらわれる
すべてと一体になったような、鮮やかで何ともいえない快い感覚や
エネルギーに満ち溢れて穏やかで、何事も可能だと確信している感覚
というのも、ただその一瞬に無心に存在する「わざ」によるものです。

その「こつ」や「わざ」の部分を習得していくレッスンが
アレクサンダー・テクニークで行われていることなんだなと
このごろ改めてわかるようになってきました。


何がそこにあるのか、わたしたちの多くが確証を求めがちですが
本当に大切なものは気持ちのように目に見えなかったり
動きのように捕まえたり固定できないものかもしれません。

自信も同じように、捕まえることも、絶対に固定できるものではなくて
流動的で可変性のあるものだからこそ
捉えようとするほど、捕まえられない、習得できないのかもしれません。

すばしっこい生きものを捕まえるときのように
こちらがリラックスするほど、相手もリラックスして
姿をあらわしてくれるかもしれません。

まずは捕まえようとする前に、仲良くなるところから始めたら
なにが起こってくるのでしょうか。

仲良くなるのには、時間がかかることもあれば
時間がかからないですぐに、ということもあります。
それはきっとお互いが、どれだけリラックスして打ち解けているか
自然体で自分を加工しないでいられているかがカギなのかもしれません。


自信を生み出すには、まず自分と仲良くなることから。
そして、自分がリラックスすることから。

わたしも一緒に、そこからまた始めてみようと思います。
読んでくださり、ありがとうございました。


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2010年10月21日木曜日

内的感覚から出てくることば

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、内的感覚の変容が大きくて
理解を超えた理解に言語化が追いついていない毎日です。

理解を超えた理解って、どういうことなのか、というと
わたしにとっては意識の範囲の広がりのその先のずっと先が
あるとはなしに知覚できるという感覚。

そこにあるのね、とわかっているけれど
その中身にはまだ到達できていない、味わっている最中のもの。
そこに猫がいるのわわかってるけど、まだ姿は見たことがなくて
だから、「どんな猫?」ってきかれても説明ができないような感じ。
といったらわかりやすいでしょうか。
(もっとわかりにくい?)



内的感覚ってなに?という説明をするならば
そのひとそれぞれが体験して味わって感じた感覚のこと、といえるでしょうか。

たとえば、同じ場面で同じ食べ物を食べても
それぞれの体調や過去の経験からの記憶、立場、状況、感情、天気、光の加減など
さまざまな要素によって受け取る感覚が違うはずです。

そのベースとなるのが、それぞれ固有の内的感覚なのだと思います。


たとえば、一卵性双生児が生き別れてまったく別の環境で育ったら
同じ身体の情報を持っていても、体験から養われた内的感覚は全く違うので
きっと物事を味わうセンスや考え方も全く違うのだと思います。

生命や人間としての尊厳の危険を感じる環境で育てば
基本的生命活動にかかわる安心や安全という内的感覚は緊張状態にあって
いつでも気を張って身体も強張った状態だから、こわがりかもしれません。

生命や人間としての尊厳が尊重される環境で育まれたなら
安心や安全だけではなく、信頼や慈愛が内的感覚の基礎となっているので
身体も心もやわらかで、自由でクリエイティブな向こう見ずかもしれません。

そして、それらの内的感覚は、それぞれにとって当たり前のもので
日常をすごす意識の基本システムとして組み込まれているので
意識されることはまったくないので、だれも気がつかないところなのです。


わたしが体験したことは、まさにこの二つの感覚のちがい。
内的感覚で危機を感じている日常的緊張状態から
安心と安全や信頼と慈愛が満ちている状態へのシフトでした。

こればかりは、自分が気がつくことでしか変化できないこと。

今自分がどこにいるのかという情報は、体験からしか気づくことができない。
しかも、リアルタイムではなくて、少し過去に自分がどうだったか
ということを周りの人との関係性を通して示されて
それが自分に何を示唆しているのか見つめることでしか気づけない。

そのことに自分で気づけるようになるにはキッカケが必要で
そのために、たくさんの先生や師となる人と出会って、話して、体験して
それで少し成長した状態に引っ張りあげてもらって初めて気づけること。

最中に居るときは自分に気づけないでどっぷり体験することや
そこから成長する頃は、そんな少し前の自分を嫌悪してゆるせなかったり
そういうところを経ながら、それぞれの自分から学ぶことを学んで
その宿題が無事に済むと、感謝と安堵が内側から湧き上がってきて
ささやかで大きな贈りものを受け取って、祝卒業。。

複合的に、多層的に、同時多発的に
色んなリンクやシンクロが起きながら
そういうプロセスを経ていくと
ひとはいくつになっても変わることができて
自分のなりたいものにいつでもなれるのだ
ということが、うっすら曙のようにわかり始めています。

習慣的思考(過去の記憶)は、いまだに疑いたがっているけど
「まぁまぁまぁ」「そうだね、それももっともだね」となだめつつ
せかさず、今居るところの居心地いい場所から始めることにします。


あぁ、また抽象的なはなしになってしまった。
具体的なはなしができるようになるのはいつのことか。
それはそれで置いておいて、今のわたしで進んでみよう。

今日も読んでくださってありがとう。
爽やかな秋をお過ごしくださいね!


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きのうの大学の授業で

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。

このところ、起こる出来事の実感が大きすぎて
まるで旅をしているかのよう!
日常が感謝とともに新鮮に感じられて
体験の言語化が追いついていない毎日です。


さてさて、昨日も母校の日大芸術学部演劇学科で授業をしてきました。

授業の名前は応用演劇実習で
アレクサンダー・テクニークと演劇をどう応用する?
というようなテーマでやっています。

昨日は朝の出だし、寒くなってきたからかみんなゆっくり
そして、ローテンションで眠そうな感じ。

でも、そんなところをいきなり温度をあげて
気を引き締めてきりっといくのではなくて
今この状態をまるごと受けとめてOK出したところから始めてみる
という実験をしました。

やっぱり舞台や演技の現場に居たら疲れているときもあるし
状態のよくないときもあるし、生身だから色んなことがある。

だからこそ、いきなり本番仕様に自分をもっていくんじゃなくて
そこまで温度がじわじわあがっていくようなプロセスを
丁寧に準備して本番仕様にもっていってもいいんじゃない?
アップって本来そのための移行を味わう時間じゃない?
ってわかることが大事だよね、というねらいでやってみました。


まずは、ペアになって、今の自分の状態のままで
身体の一部を合わせたまま動きながらコミュニケーションしていく
というエクササイズ。



みんなこれまで充分に演技トレーニングを受けているので
放っておいても自由に動く動く!
ちょっとのヒントを出しても出さなくても、どんどん面白い動きが出てくる。



普段から思考も身体も自在にしておく練習を積んでるからこそ。
思考も身体も固定化された中でやってるのが普通になっていると
身体を動かすのにも思考を動かさないと動けなくて固まっちゃって
考えずに動けるようになるまで練習が必要なこともあるかもしれない。。

何がいいか、悪いか、なんていう判断は置いておいて
こうやって動いてみて「何ができる?」「どうやったらできる?」って
ただ純粋に可能性に向かって試行錯誤してみることの大切さを
みんなの動きから気づかされて、面白くて、すばらしい。



生徒がそれぞれに気づいて学んでいってくれることはもちろんだけれど
わたし自身が彼らの生徒としても存在できるこの体験に感謝。
ついつい誇らしく紹介したくなってしまう魅力的な生徒たち。


そんな彼らを応援したくなってしまう。
だから、みんなそれぞれが自分のなりたいものになっていってほしい。
ただそのねがいから、授業の後半は自分の中身を知りながら
夢をどうやって叶えていくかの実験。

でも、昨日だけでは終わらなくて
また次回に持ち越し。
わたしの進め方の説明がわかりにくかったから、
こんどはもう少し工夫の余地ありありです。

具体的なビジョンやイメージを共有するところから始めないと
色んなことがぼんやりしてしまって、理解もぼやけてしまいがち。
もっとわかりやすく具体例をあげて、次回はすすめていきたいと思います。


授業もそうだけど、自分のやること全般に
シンプル化が課題です。

そして、生徒達への課題はここから確認!

というわけで、今日はこのへんで。


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2010年10月15日金曜日

こないだの大学の授業では

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なるべくいつも、大学(日大芸術学部演劇学科)での授業は
自分が大学生の頃に、こんな授業受けてみたかった!と思えるような
自分もみんなも面白がれる内容になるようプランを作ってます。

と言いながら、実際みんなにとってどうなのかはわからないのだけど
わたしにとってはいつも面白くて、勉強になる時間です。
(関係者のみなさまありがとうございます!)
この水曜の大学での授業も、なかなかう~むと唸らされるものでした。


出席してくるメンバーが、毎回ちょっとずつ入れ替わるのだけど
その顔ぶれだったり、それぞれの調子や、関心なんかでやることが変わってくる。

今回は、睡眠時間が少なくて眠い人がいたり
肩こりがあるなんていう人がいたので
腕と肩のマッピング(体地図)をやってみることに。


睡眠不足や緊張なんかで、肩まわりがこわばるのはよくあること。
舞台や人前に立つときにそんな状態だと
パフォーマンスが思うように自由にならなかったりしちゃう。
だから、自分でできる肩まわりのゆるめ方は知っておいたほうがいい。

普段、意識がない場所というのは、とかく放っておかれがち。
そうすると、そこは忘れられるのと同時に、本来の可動性の広さも忘れられる。
それで、体がどんどん硬くなっていっちゃったりする。

まさにそれって宝の持ち腐れ。
体という宝物の活かされる扱い方を知っていたら、そんなに起こらないこと。
自分の体が使役の道具なのか、親友なのか、その関係性で大きく変わること。

そのために、自分の体の構造や、存在感(筋感覚的認識)を味わうこと。
そういう体験の積み重ねが日常的であればあるほど
舞台や人前という非日常の場でもベストパフォーマンスを引き出すべく
自分という全存在(体、意識、心、ぜんぶまるごと)が協力してくれる。

そんな意図で、ボディマッピングと動きの観察と確認を。
(ボディマッピングだけが完璧な方法ではないけれどね!)


肩関節の次には、脚のマッピング。
みんなでやってると遅れて来た人が順次到着。

じつは、遅れてくる人がどんな風に入ってくるかも楽しみの一つ(笑)。
ほとんどエチュード(即興芝居)の登場と同じようなものだし
リアルにその人のキャラクターから生まれてくる表現だから、余計に面白い(笑)。

寝ぐせがついていたり、申し訳なさそうだったり
それぞれの表情やしぐさや動き、みんな生き生きとしていて楽しい。
だからついつい、入ってきた人に手を振ってしまう。
(今度はもっと面白い迎え方できないかな。)


なんだかんだ言いながら、みんな真剣な表情で自分の体と向きあったり
わいわい自由に話しながらそれぞれを観察しあったりしてくれて
その様子を見るほどに、この授業がみんなに助けられているなぁと実感。

やっぱり授業もコミュニケーションの一つだし、双方向のもの。
どちらか一方が積極的なだけじゃ何も起こらない。
自らすすんで興味のあることを見つけたり、面白がったりしないと
なかなかお互いの学びに貢献しあうことはできない。

そういう面でも、先生が生徒に教えるんじゃなくて
わたしも含めてそれぞれがそれぞれから学びあう、そんな場であることが
学ぶということにおいて、いちばん大事なんだなぁ、なんて実感する。


最後の方では、アクティビティ(アレクサンダーの応用)を。
実際の演技の一部をしてもらって、それがどうなるか実験するもの。

Yっちが歌舞伎の演技で実験協力、そして的確なフィードバックをしてくれた。
やっぱり自発的に気がついて、気づきを発言してくれる機会は貴重だ。
Yっち本人にとっても、一緒に学ぶ人にとっても、わたしにとっても
それはかけがえのない贈り物だし、刺激材料にも励ましにもなる。

こういう機会や場にそれぞれが開いていくこと、生み出していけることは
何かを創造していく人にとってとても大事な才能、可能性になる。
自分の才能を掘り起こし、周りの才能を掘り起こすことになるから。

それぞれがそんな風にいられたら、どんなにいいだろうと夢を見ながら
今ここで起こっているそれぞれの可能性の輝きに
わたしはどんな手助けができるだろう?と常々思ってる。


もしかしたら蛇足もあるかもしれないから
わたしの言葉ややることすべてを信じる必要なんてない、って思う。

その分、それぞれが少しでも自分自身との関係をより深めて
自己信頼や自分の頭で考え、自分のことばで話していかれるように
できるかぎり体験をサポートしていけたらなって思う。

人前に立つとき、立たされたとき、その土台が
それぞれをいちばん支えてくれるものだと思うから。



その下支えになるような、この授業の課題を出してみました。



サラ・バーカーさん著の「アレクサンダー・テクニーク入門」と
北山耕平さん著の「自然のレッスン」を読んで
感じたこと、考えたことなどを好きな形式で書いて提出する、という課題。

本は全部読んでもいいし、気になったところだけでもいいし
好きなように読んで、楽しんで課題をやる=楽しめるように工夫すること。

だから、文章でもいいし、書でもいいし、絵でもいいし、工作でもいいし
ダンスにしてきてもいいし、量も好き好き思い思いに
11月24日(水)の授業中までに提出すること。

それも、なるべく楽しんで、面白がってできるようにというのが
この課題でいちばん重要なこと。
(何をするにも、自分が楽しむことが一番重要だから!)

というわけで、ブログ読んでる生徒のみんなは
読んでなくて課題知らない人に知らせてくださいな。
よろしくね。




その他に、役者やパフォーマーとしてはもちろん
体を大切にしたい人はだれでもセルフケアができた方がいいので
アレクサンダーの本ではなく、全く違う方法で体ケアの考え方の本なのだけど
わたしがやっとたどり着いて実践して良かったおすすめの本もいくつか提示しました。

「ライスビート」

「マンガでわかる 西式甲田療法」

「家庭で出来る自然療法【改訂版】」東城百合子著
(表参道のクレヨンハウスに売っていました。)


最終的に、この授業を通してそれぞれが
自分の存在の価値を十分に受け取って活かしていかれるように
どこにいってどんなことをしても、自分は大丈夫、って信頼とともに
必要な行動を起こせる勇気とともに居られるように
今の自分にできることを最大限お手伝いさせてもらえたらなって思ってます。


次回の授業は、人間の意識と体のしくみ(夢を実現する方法)をテーマにします。
好きな画材、筆記用具、スケッチブックなんかを持参で来てね。


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10/22(金)「ダンボールコンポストをつくろう!」ワークショップ参加者募集中

2010年10月11日月曜日

10/22(金) ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


今日も、『ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ』
第2回めを開催しました。




今日は2名の方にご参加いただきました。
和気あいあい♪と出会いの場にもなり楽しかったです:)


ご好評につき、また今月22(金)にやることになりました。

エコでたのしいワークショップ、おすすめです♪




ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ



自分が食べた食べ物の生ごみやお米のとぎ汁、どうしていますか?
食べられなくなった食べ物や揚げ油など、どうしていますか?

捨ててしまう生ごみも、りっぱな資源になります。
そのプロセスを応援してくれるのが、ダンボールコンポスト!

マンションでも、一軒家でも、ベランダで気軽にできます。
(わたしはマンションでやってます。そして、いいかげんでもできる!)

少しでもごみの量を減らして、植物のごはんにできる。
たとえば、ベランダ菜園やハーブ、花たちを育ててみると
植物たちへの愛情がより深くなるし、より元気に育ってくれます。

なにより、ダンボールコンポストをお世話するのも楽しい!
わたしたちの消化のプロセス(食べ物、知識、体験)とよく似てる!
色んな発見と実験が繰り返されて、一緒に育っていけるペットのようです。

そんな楽しいダンボールコンポストの作り方を
一緒に学んでみませんか?





10/22(金)10:00~11:15ごろ @乃木坂スタジオ

※お申込後に道案内をおおくりします。

参加費:1000円(プリント、植物のたね付き)

※ダンボールコンポストの材料はかさばるのでつきません。
※このワークショップに一度参加してコンポストを始めた方のリピート参加は無料です。


<お申込>
申し込みフォームから予約内容を「その他」と選択して
メッセージに「ダンボールコンポスト」と書き添えてお申込みください。


ご参加お待ちしております:)

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2010年10月9日土曜日

今のわたしの夢

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


今朝もシャワーを浴びながら、ビジョンがむくむく湧いてきた。


いや~、それって、妄想とか、空想とか言ってもいいと思うけど
以前はそういう湧いてくるものを全否定してきたし、受け入れてなかった。

でも、今はそんなことしてもしなくてもどうでもいいやって思ってる。

だから、湧いてきたものにわくわくしたり
自分の心ががっちり合致したら(←ダジャレ??)
それにのっかってみたらいいやって思えていて
とっても楽。



そんなわけで、今朝(というか、さっき)見たビジョン
わたしの夢とも言ってもいいくらいすてきで、わくわくしたので
ここに「今のわたしの夢」として書いてみることにします。
(今、っていうのは、また変わっていくかもしれないから!)


以前から夢見ていた、たくさんの果樹や菜園のある家に住んで
そこで採れた恵みをいただいたり、手作りしたりする生活しながら
そこを拠点にしてレッスンやワークショップ、合宿をしたりする
というものが、なんだかすごいスケールが拡がったビジョン。


それは、先日の日記にも書いたような人たちと
果樹や菜園、薬草などを無農薬・有機で育て
そこで採れたものを売ったり、オーガニックで高品質な製品をつくったり
(ジャムやスイーツ、化粧水やフラワーエッセンス、薬草茶、セルフケアグッズなど)
それを友人達のお店やサロンで扱って販売してもらったり、使ってもらうことで
誰にとっても笑顔で毎日暮らせるような循環をつくっていくこと。

そして、その場所自体がヒーリングになるような
みんながしあわせで愛にあふれたバイブレーションで
「仕事=遊び=喜び=しあわせな生活」という
適材適所なコンビネーションで
全てを創造的にすばらしく機能させること。

自信と技術が身についた人たちが
みんなに祝福されながら、独立して安定した収入を得て
自立した生活を送れるようになること。

残って一緒に働き生活したい人は、安心して残ることができること。

そこに訪れた人も、そのバイブレーションに触れて
元気になったり、笑顔で生きていけたり、自分の本当!が目覚めて
毎日をフレッシュな喜びとともに生きていかれるような
そんな場と空気をつくること。



きっと、ここに書いたことを実現するには
わたし一人じゃなくて、たくさんの人の助けや力が必要になると思う。

そして、同じようなビジョンをもつひとは、わたしだけではないと思う。

だからこそ、奪い合うのではなく、寄り添い合って支え合い、励まし合い
だれが実現するかではなく、どうやって実現するか
そのビジョンが実現されることにエネルギーを注いでいきたい。


何十年もかかるかもしれないし
その間に、わたしはまた違うビジョンの流れに乗っていくかもしれない。

でも、ここでこの夢をシェアすることで
多くの人の中で、こんな世界が実現することをイメージすることで
わたしだけではなく、それぞれの人、まだ見ぬ多くの人たちが救われて
いきいきと喜びに満ちた人生を送れるようになるといいなと思っています。



想像できる、ということは、創造できる、ということ。

それを信じない人には、この夢は話す必要はないと思っているけれど
共感してくれる人、信じて応援してくれる人にはどんどん話していきたい。

多くの人が信じないかもしれない可能性も、わたしは信じたい。

すべてはそこから始まると思っている。


わたしが実現するのではなく、わたしからアクションを起こすことで
たくさんの人の共感と支援を得ながら、力を合わせて実現していくこと
それが、ほんとうの自立だったり、共生につながるなって思います。

もしも、何かわたしが足りないところや
工夫が必要なところがあったら教えてください。

力を貸してくださるという方がいたら、そのときは声をかけてください。

それぞれが輝きながら、自分を心から喜んで(祝って)活かされる生を。


それが、わたしの今の夢です。


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2010年10月8日金曜日

10/11 ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ ふたたび

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。

今日は、『ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ』
記念すべき第1回をやりました。



3名の方にご参加いただきました。
楽しんでいただけたようで、わたしも嬉しいです♪


思いがけず、また月曜(祝日)にもまたやることになりました。
今度は要領がわかってきたので、時間が短くなりました!

お休みの朝のスタートに、お出かけ前に
エコでたのしいワークショップ、おすすめです♪




ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ



自分が食べた食べ物の生ごみやお米のとぎ汁、どうしていますか?
食べられなくなった食べ物や揚げ油など、どうしていますか?

捨ててしまう生ごみも、りっぱな資源になります。
そのプロセスを応援してくれるのが、ダンボールコンポスト!

マンションでも、一軒家でも、ベランダで気軽にできます。
(わたしはマンションでやってます。そして、いいかげんでもできる!)

少しでもごみの量を減らして、植物のごはんにできる。
たとえば、ベランダ菜園やハーブ、花たちを育ててみると
植物たちへの愛情がより深くなるし、より元気に育ってくれます。

なにより、ダンボールコンポストをお世話するのも楽しい!
わたしたちの消化のプロセス(食べ物、知識、体験)とよく似てる!
色んな発見と実験が繰り返されて、一緒に育っていけるペットのようです。

そんな楽しいダンボールコンポストの作り方を
一緒に学んでみませんか?





10月11日(月・祝)10:00~11:15 @乃木坂スタジオ

※お申込後に道案内をおおくりします。

参加費:1000円(プリント、チェリーセージのたね付き)

※ダンボールコンポストの材料はかさばるのでつきません。
※このワークショップに一度参加してコンポストを始めた方のリピート参加は無料です。


<お申込>
申し込みフォームから予約内容を「その他」と選択して
メッセージに「ダンボールコンポスト」と書き添えてお申込みください。


ご参加お待ちしております:)

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2010年10月7日木曜日

AT演劇ワークショップ@大分 ~チャリティ・イベント~

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


11月3日(水)、大分のコンパルホール(リハーサル室)にて
AT演劇ワークショップをチャリティ・イベントとして開催します。

アレクサンダー・テクニークを使って演劇表現をすることを
シアターゲームやエクササイズなどを通して
身体や声を解放し、自分の創造性や可能性を遊びます。

また、アート(演劇)に参加することで、社会貢献する
そんなサイクルを生み出していきたいと思っています。

というわけで、参加者の方からお預かりした参加費の合計から
会場費などの経費、約2000円を除いた分を障がい者支援団体に寄付します。

垣根をこえて、あなたの、みなさまの、ご参加お待ちしております:)
たくさんの人の笑顔とつながることができますように!


大分! AT演劇ワークショップ チャリティ・イベント

11月3日(水)文化の日!10:15~12:45
@コンパルホール(リハーサル室)

<参加費>
大人 500円
大学生・専門学校生 300円 (ペア割:500円)
障がいのある方 200円 (ペア割:300円(お付き添いの方やお友だちともご一緒にどうぞ))
中高生 100円
※学生の方は、確認のため学生証をお持ちください。

<お申込>
申し込みフォームから予約内容を「AT演劇ワークショップ」と選択し
メッセージに「大分チャリティ」と書き添えてお申込みください。


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やりたいこと(?)がわかってきた(?)

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、わたしが?わたしたちが?やりたいこと
というのか、やるべきこと(方向性?)がわかってきた(?)
そんな気がしてる。 ← でもまだ、キツネにつままれてる気分

気がする、というのは、まだアタマにハテナがついてるから。
だから、キツネにつままれている気分なのだけど。

あ~、それだ~!って浮かんでくるんだけど
その後に、「ほんと?ねぇ、ほんとなの?また変わっちゃわない??」って
アタマがハテナを出してくる。
そんな感じがずっと続いてる。

わたし、というのは、わたし個人なのだけど
わたしたち、というのは、わたしと夫、という共同体のこと。



わたしの夫は、社会的弱者が救われないことに常に憤りを感じてるひと。
今は高齢者と障がい者の暮らしやすい環境づくりの研究をしてる。
こどもと動物にもめっぽう弱い人でもある。(すぐ泣く!愛!)

むかしは、国という大きなシステムに関わる仕事をしてたからか
悪い人(しぶとくて力の強い人たち)がどれだけ悪いか、救いようないか
なんてことをよく知っているらしい。(けど、わたしにはよくわからない。)

繊細で正義感のつよい人だけに、これまできっと大変だったね。。って思う。
そして、今これからは、そこから少しずつでも解放されて
もう少しちがう可能性、風通しのよくなる角度に気づいてくれたらいいな、と思う。

それは彼の学びでもあり、彼の選択。
だんだん、実際そうなってきてるのがすばらしい:)

わたしは、ただ彼が本当に満足してこの一生を送ることを待っているだけ。
期待は手放して、花が咲くのを待つみたいに楽しみにしてるよう。



で、やりたいこと(?)、やるべきこと(?)に話が戻ってくると
どうもこの数日、生まれ育った東京に戻ってきてから
同じようなビジョンが浮き上がってきている。

社会的弱者になりがちだけど、ほんとは可能性に満ちた人たち
たとえば、障がいがあったり、傷つきやすくて引きこもりになっちゃったり
自分に自信を失ってしまっているひとたちや、失業してニートと呼ばれちゃってるひと
いろんな葛藤や症状と闘っているひとたちなど
彼らが自らのチカラで希望と自分の可能性を思い出せるような
そんな場を提供していくこと、そういう安心できる環境をつくること
雇用を生み出せるような人間になること
そういう循環やルートを生み出すこと
そんなビジョンが浮かび上がってきてる。

そんなたいそうな話のものだから、わたしにできるのか!?って
ただただびっくりして、浮ついてないか、一時的な思いつきじゃないか
アタマにハテナがいっぱいになってるんですね。

だって、そこにつながる行動として浮かぶプランが広大すぎる!
しかも、ちゃんと段取り的にこんなこと、あんなこと
って指し示されているような。(むにゃむにゃ)



いやいや、昔の自分のようなひとたち、後の世代に伝えていくことが
わたしにとってとても喜びと責任を感じることだったのは事実だけど
ここにきていきなりそんなにでっかい範囲ってどういうわけ(?)。

そりゃ、ハテナがつくのもあたりまえだわさ。


でも、よーく見てみると、さっき書いた状況のひとたち
わたしが多かれ少なかれ経過してきた過去の自分の状況と同じ。
そして、わたしに与えられた家族の状況にもぴったり通じる。

だから、そういうシチュエーションとキャスティングだったわけね、って
なんか妙に納得するところもあり、途方に暮れるところもあり。


で、ひとまず、抵抗しないで受け取ってみることにした。
なんかしっくりおさまりがいいところもある気がして。



そんなわけで、これから、わたしの仕事での収入の10%は
障がい者支援団体に寄付することにしました。

それから、アレクサンダー・テクニークを使った演劇のワークショップを
大分と東京、機会があれば各地方にも出張してやっていきます。

このワークショップは年齢、経験、その方の状況問わずに
垣根を越えてたくさんの人に参加していただけたらなと思っています。

年に数回、チャリティワークショップを開催して
会場費などの経費を除いた参加費収入を障がい者支援団体に寄付して
「アート(演劇)に参加=社会貢献」という循環を生み出します。

その経験をもとに、演劇と身体(感性)とコミュニケーション
そして、教育(人が育まれること)についてまとめて発信していきます。

アート(演劇活動)と社会貢献を両立できる活動に重きを置くために
アレクサンダー・テクニークを収入を生み出すツールとして活用します。

自分の人生や生活と充分に循環しながら
これらの活動に自分を気持ちよく差し出せるようととのえます。




はぁ、やっと書けた。
書いたら、なんかホッとした。

どんな形になるかわからないけど、ひとまず稽古場に登録申請したこと
チャリティワークショップのための会場を押さえたことから始めました。

これから、寄付する障がい者団体を調べてみます。
どなたかおすすめの団体、心当たりのある団体がありましたら
どうぞ教えてください。


最後まで読んでくださってありがとう :)

オカナオ

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毎日が贈りもの

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、毎日がすてきな贈りものに満ちています。

大分に帰ったときもそうだったし、その前も、その後も!
今朝も、すてきなメッセージ&出会いで目が覚めた!!

すべての道は、贈りもの(ラッキー!たのしい!うれしい!しあわせ!)に通じてる!

ほんとに色々ありがとう!
こんなに色々ありがとう!

みんなにハグして、キスしてまわりたい!
(ほんとにやったらビックリされちゃうから
 心の中だけ!で、笑みになってこぼれる!)

そのくらいしあわせ!

みんなみんなにありがとう!
感謝!謝々 :)


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2010年10月6日水曜日

今日は大学で授業 :)

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


今日は大学(日本大学芸術学部演劇学科)で授業をしてきました。
応用演劇実習という名前の、演技をする学生に教える
身体を動かしたりする授業(講義ではないってことですね)でした。

今日は、からだと向き合うエクササイズのあと
授業で小道具を扱うときの、生身の反応について実験しました。

ひとつは、みかんとパンをちぎって食べさせあうコミュニケーション。
(大分の早生みかんと、メゾンカイザーのオレンジピールのパン!)

食にまつわる行為は、とても喚起される感覚や記憶が多いので
反応したくなる刺激がいっぱいなんですね。
それを、どう自分が味わっているか、何に気づくか。
そんなことをやりました。

香りや味、みずみずしさや湿り気などの質感、温度、触感
そういったものとともに在りながら、食べさせたり、食べさせてもらったり。
やっているうちに、みんな満面の笑みになっていくんですね。
それがすてきで、どんどん創造性が生まれてきて自由になっていく。
そんな様子を見ていて、自由だな~!って、彼らの可能性にわくわく。

やっぱり演技者、パフォーマーは、人を惹きつける要素が
なにかしらどこかにあるものだと思うのです。
でも、それって自分を隠してるときは、部分的にしか現れてこない。
素がさらけ出せちゃう、その人まるごとの状態になって
「どうぞ!」って全部相手に差し出せるとき
何だかよくわからないけど「うわぁ!」って面白いものが出てくる。
見せるとか、魅せるって、そういうものなんじゃないかなって思います。


そして、ふたつめにやったのは、目をつぶって色んな道具を触ること。
さらに、目をつぶったまま歩きながら、周りの人と持ってるものを交換すること。

はじめは、おっかなびっくりして小さく丸くなって触ってるんだけど
だんだん慣れてくると、みんな少しずつ身体も動きも広がってくる。
重心も腰が引け気味だった感じから、中心にちょっと戻ってくる。

つまりは、持ってるものにも、状況にも、周りの相手にも慣れてきて
そこにあるものが何なのか、情報が記憶にストックされることで
安心してやり取りできるようになってるってことなんですね。

それから、目を開けて、持ってるものを介して渡したり、もらったり
断ったり、断られたり、色んなコミュニケーションを。
遊びでやっているからということもあるけれど
全ての行為が喜びや楽しみを生み出すものになっていって
最後はこんなことになっていました!

あんまりにも面白かったので、写真を撮らせてもらったのだけど
笑っててちょっとぶれちゃった!





もうほんとに、みんなサービス精神旺盛です!
ほーんと自由に歌うし、踊るし、喋るし、楽しそう!

そんな生徒に恵まれてしあわせです!ありがとう!
それぞれもすてきだし、授業でいい経験いっぱい積んだんだろうな~:)

これからもっともっと演技(パフォーマンス)を、自分自身を
みんなそれぞれに面白がったり楽しみながら
ピークパフォーマンスを体験してもらえるよう
わたしに何ができるか、どんな工夫ができるか
楽しみながらベストを尽くしていきます。

来週は、水とグラス(もしくはカップ)持参でね!
自分のやりたいアクティビティや実験もあれば持参(?)してね。
次回も楽しみです。喜んでがんばろうっと:)


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ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ

おはようございます。
あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。

先日ツイッターから始まった企画の
ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ
やることにしました。

急遽、いきなりのワークショップ。
というわけで、今週金曜の午前開催です。

ピン!と来た方、ぜひご参加ください♪



ダンボールコンポストをつくろう!ワークショップ



自分が食べた食べ物の生ごみやお米のとぎ汁、どうしていますか?
食べられなくなった食べ物や揚げ油など、どうしていますか?

捨ててしまう生ごみも、りっぱな資源になります。
そのプロセスを応援してくれるのが、ダンボールコンポスト!

マンションでも、一軒家でも、ベランダで気軽にできます。
(わたしはマンションでやってます。そして、いいかげんでもできる!)

少しでもごみの量を減らして、植物のごはんにできる。
たとえば、ベランダ菜園やハーブ、花たちを育ててみると
植物たちへの愛情がより深くなるし、より元気に育ってくれます。

なにより、ダンボールコンポストをお世話するのも楽しい!
わたしたちの消化のプロセス(食べ物、知識、体験)とよく似てる!
色んな発見と実験が繰り返されて、一緒に育っていけるペットのようです。

そんな楽しいダンボールコンポストの作り方を
一緒に学んでみませんか?



10月8日(金)10時~12時 @乃木坂スタジオ

※お申込後に道案内をおおくりします。

参加費:1000円(プリント、チェリーセージのたね付き)

※ダンボールコンポストの材料はかさばるのでつきません。


<お申込>
申し込みフォームから予約内容を「その他」と選択して
メッセージに「ダンボールコンポスト」と書き添えてお申込みください。


ご参加お待ちしております:)



Sudio Saltia* のサイトはこちらからどうぞ

2010年10月4日月曜日

AT演劇ワークショップ@東京のお知らせ

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


特別なようで、だれもが実は日常している
役割を演じること。

演じる技と書いて、演技というけれど
演技をする人こそ、じつはもっともピュアなのかもしれない。

思い込みの世界に生きる演技じゃなくて
今を生きて味わいつくす、そんなリアルを満たす体験へ。

何かをとりつくろうために、じゃなくて
飾り立てて立派に見せるために、でもなくて
素のわたしがここに立つために
役やシチュエーションのなかで創造性とともに自由に解き放たれること。

それがほんとの演技、表現なのかもしれません。




■  AT 演劇 ワークショップ  ■


わたしたちの創造性は
想像力と表現力によってONになり活性化します。

このワークショップでは
それぞれの中に眠っている自由な感性を掘り起こすために
演劇表現の現場で使われているエクササイズやゲームをしたり
小道具を使って即興芝居をしてみたり
アレクサンダー・テクニークを使って動き方の実験をしてみたり
遊びと創造性のなかで心身ともに放牧します。





・・・ こんな方に ・・・

・自分を活かす演技の基礎を学んでみたい方
・からだを、自分を壊さない演技の仕方を学びたい方
・演技経験者だけど、もっと新しい可能性を学んでみたい方
・舞台や人前に立つための身体の使い方、自分の使い方を知りたい方
・パフォーマー、表現者としてもっと成長したい方
・人前に出たときに、もっと自由に快適に表現できるようになりたい方
・創造性や遊び心、自由な感性を取り戻したい、思い出したい方
・表現することに興味あるし、してみたいけど苦手だな・・・と思っている方
・このワークショップにピン!ときた方

経験不問です。お気軽にご参加ください。




●参加費 3000円  お申込はこちら

※原則予約制ですが、会場が広い場合などの当日参加はOKです。
事前に確認のお電話をください。 (090-3340-4264 オカナオ)

※当日キャンセルは、参加費の半額を申し受けます。

※無断キャンセルは、参加費全額を申し受けます。

※キャンセルせずに、代わりの人が参加する場合は
ご一報くださるだけでOKです。




◎東京開催
 
10月 9日(土)10:30~13:30 @乃木坂スタジオ
10月23日(土)10:30~13:30 @乃木坂スタジオ
11月20日(土)10:30~13:30 @乃木坂スタジオ(予定)
12月 4日(土)10:30~13:30 @乃木坂スタジオ(予定)

その他の詳細は Studio Saltia* からどうぞ


★このワークショップでは、寝転がったり 体操をしたり、たくさん動き回ります。
 腕や脚のつけ根をしめつけない ジャージなどのゆるやかな服装でいらしてください。
(ジーパンやスカート、短いボトムスやタイトな服は避けた方が安心して動けます。)

★寝転がるのに、ヨガマットやバスタオルなどを持参されると快適です。

★水分補給のため、お好みの水をご持参ください。

★ゲームのために必要な道具を、事前告知のうえ、ご持参いただく場合があります。
 ご協力ください。(例:ひらひらはためくくらい軽いスカート、枕、 など)



Sudio Saltia* へはこちらからどうぞ

2010年10月3日日曜日

みんなそれぞれに

このところ、流れがどんどん変わってきている。
自分の中身も、もう数ヶ月前とは生まれ変わったように全然違っていて
夏の自分は思い出せても、春の自分は別人のように感じてしまう。

だからなのか、東京に行く前と、帰ってきてからも全くちがう。
体の中に流れる時間や感覚がちがう、と言ったらいいのかな。

だから、ご縁のある人とつながることは充分にあるのだけれど
タイミングが少しでもずれると、少し前と全く違ってしまって
ご縁がはなれて会えなくなったりしてしまう。

なので、せっかくお申し込みやお問合せいただいても
実際のレッスンやワークショップまで漕ぎ着けなかったりして
おたがいに手をつなぎそびれちゃった!というようなことがあるけれど
それもまた自然の流れだったりするんだなぁと、秋の空を眺めるように見ています。

みんなそれぞれに、自分にやってくる流れにまかせて
ときには抵抗したりもしながら、日々の変化を生きているんだなぁ
なんて思うと、励まされたり、ほっとしたりして
みんなこれでいいんだ、そこから新たに始めたらいいんだと思えます。


先月の初めにホームページを更新したけど
もうすでに違和感を感じてしまってる自分が居て
スケジュールやイベントも、また構成しなおしそうな予感。

常識的に決めたままに遂行することが今のわたしにはできないことも
ただありのままに受けとめて、手放して流れにまかせてみることにします。

参加を検討していて下さったみなさまにには
わたしの気まぐれぶりを謝るほかありませんね。
ごめんなさい、どうぞお許しください。

そこにいたった気づきについては、また次の日記で。
ありがとうございました。

夢を叶えるはじめの一歩

ずっと夢見ていたけれど、先の話だし・・・と思っていたこと
ぽん!と背中を押されるタイミングで踏み出しました。


わたしの子供の頃から変わらない夢は
家族と猫と一緒に、果樹と菜園の広がる庭のある家に住み
自宅で採れた旬の野菜や果物から手作りを楽しみ
自然と宇宙と循環しながら、いのちがのびのびする生活をすること。

そして、今現在のビジョンは
そこを拠点として、時には旅をしながら
人がそれぞれに学び、育ち、癒され、本来の輝きをとりもどすような
そんなサポートをライフワークとして
プロフェッショナルとして実現していくことです。



今わたしは、大分の古いマンション(アパート?)に住んでいて
ベランダが菜園のようになっている生活をしています。

果樹はまだまだ先、次回引っ越してからかな・・・
そう思って憧れているだけだったけれど
大分生活文化展というイベントがちょうどあり
見に行ったら苗木を買うことに。

一緒に行った現実主義の夫も
「引っ越すにしても、どうせ育てるなら早いほうがいいよね」
なんて思いがけないOKが出て果樹を連れて帰る運びに(!)。


杏、南高梅、いちじく、渋柿、枇杷、アセロラ、グアバ、レモン、コーヒー
そのほかにも、百日紅、山茶花、ハイビスカス

ずっと憧れていた果樹たちが一気にうちにやってきて
植木鉢が足りなくて、急場しのぎで土の入っていたビニール袋に植えました。



少し前にタネを蒔いて芽が出てきた果物たち
パッションフルーツ、かぼす、グレープフルーツも
まだまだ小さいながら、これからの成長が楽しみです。

願わくば、この子(植物)たちとともに快適に暮らせる
土地や家にご縁ができますように。
そこで、わたしにできることを最善を尽くしてさせていただけますように。


そんなことを願いながら、期待は手放して
無心になってお世話をさせてもらうのが
今のわたしのささやかで大きな喜びです。

いつかは・・・と願うことが、ほんのすこしの後押しで現実になる。
そんな一歩を踏み出せたこの週末に感謝と喜びがいっぱいです。


植物達の葉がのびのびと茂り、花を咲かせる頃
それぞれの人の願いも実現へとひらいていかれますように。

なんだかそんなことを願わずにいられない、幸せな秋のお休みです。

2010年9月24日金曜日

Seed Exchange

 昨夜は、YOGAインストラクターでHOLY Artistのayamintさんに声をかけてもらって、初めてSeed Exchangeのイベントに参加してきました。


 種の交換会をするんだって~、と以前から小耳に挟んでいて面白そう、と思っていたら、まさか前日に声をかけてもらって、こんなにすぐに参加できるとは。。

 ちょうど手元に、ライフスタイルの中心を農業にシフトした友人へおくるため、この夏に買った野菜から採取した天間紅キュウリと縞柄のうりの種(固定種)を持ってた!とってもラッキーでした。

 渋谷のdaylight kitchenというすてきなカフェでのイベントで、集まっていたひとたちは50人ほど。ほとんどが女性でやわらかく華やかな雰囲気。

 そのなかで、「野口のタネ」の野口さんがお話をしてくださって、タネの種類には、F1という意図的に掛け合わせてつくられた雑種のタネと、在来種や固定種といわれるむかしから本来の姿のままのタネがあること、F1のタネがどうやってつくられるのかなど、はじめて知って驚きました。


 本来植物が子孫を残すために持っているメカニズムである、おしべとめしべをもっていて、受粉すると実ができて、種ができて、そこから新たな命がまた育って子孫を残していのちをつなぐ、という部分が、意図的に操作されているのがF1のタネなんですね。

 F1というのは、雑種交配した1代目という意味で、雑種1代目は出来が良い作物が揃いやすい、ということもあり、それを意図的に生み出すために製造されたタネなのです。

 それだけ聞くと「お、いいじゃん」と思うのですが、じつは、そのために、雑種二代目が生まれないようになっているのだそう。つまり、F1のタネは、次にいのちをつなげない、タネをとれないタネということ。

 F1のタネの作り方は、雄性不稔という、生殖能力を失ったおしべを持つけれど、めしべのみ生殖能力のある突然変異の株を使って製造されるのだそう。本来であれば自然淘汰されてしまう株を、意図的に残すことで、食材として人間に都合のいい植物を生み出していく。

 雄性不稔の株をビニールハウスに入れて隔離して育て、本来は受粉してもタネができないはずなのに、花がついたら二酸化炭素濃度を高くして、植物の本能をかく乱することで、無理やり受粉させてタネをつくる。そうやって、新しい品種(特定の病害に強い、大量にとれる・・・)を生み出して、クローンのように画一化された野菜が取れるように操作されている。


 でも、本来のタネ、固定種や在来種のタネは、同じ種類(きゅうりならきゅうり、トマトならトマト)でも、一粒ずつ遺伝の情報が違っていて、病気に強いのがあったり、味がいいのがあったり、小さいのや、大きいのや、育って実ってみても現れてくる個性に多様性があって、病害や天候不順などにあっても絶滅しないようになっているそうなんですね。

 だから、これらのタネは、環境に順応したタネを生み出す力を持っている。今いる土地で自分のいのちをつなげていく力を持っている。そういう意味で、いのちの力=本来の生命力を持ったタネなのだそうです。


 遺伝子操作されてしまったタネは、本来の自然の中ではありえない、いのちを踏み越えてしまったタネということになるのかもしれませんね。

 よく、「遺伝子組み換え作物不使用」と書かれた商品を見ますが、そう考えてみると、どこまでが遺伝子組み換えなのか、そうではないのか、人間の手がどこまで加えられることが許されているのか、生命の倫理に関わってきちゃうのだなぁと感じます。(犬や猫のペットや、馬や牛などの家畜についても、つながってきますね。)

 日々食べている野菜に、そんな問題というかテーマが隠されていたとは、だれも気づかずに、「野菜はからだにいい」と思って作られ、食べられている。でも、その中身をよく知ること、よく見ていくこと、よく考えていくこと、じつは、それが今いちばん大切なことなのだなと感じました。


 オーガニックであること、無農薬、有機、こういったことが、どのように一般的に使われていて、自分はどうそれらをとらえているのか。

 同じイベントで話されていた、ジョン・ムーアさんのことば
「今の自分にできることを少しずつ、みんなちょっとずつアクションすること」
ほんとうに、そのことから大切なことがだんだんと伝わっていって、それぞれが内側から少しずつでも変わっていかれたらいいなと思いました。

2010年9月16日木曜日

パラサイトクレンズ、明けまして3

さて、パラサイトクレンズと食事制限でわかったこと。

いつも、どれらけあたま(思考)で欲しがって
からだを無視して食べていたか、ということ。

ほんとに、からだがきもちいい、ちょうどいい!って感じる量って
自分が思っているのより半分くらい少ないんだって。

量だけの話ではなくて、その中身と質も重要なのだけど。


食事制限をしていて、しばらく少量粗食がつづくと内臓が休まって喜ぶのに
「まぁ、このくらいいいか」ってちょっとしたものを食べちゃうと
肝臓や胆のう、胃や腸、からだ全体にどーん!って来ちゃうのですね。

たとえば、マヨネーズ(自家製だった)とかもそうだし、糖分もそうだし
ちょっとぼんやりしていて食べちゃったお肉の脂身や豚肉もそうだし
自分のからだには実はすごく負担なものってこんなにあるんだなって気がついて驚いた。

うすうすわかってはいたけど、そんなにも消化にエネルギーがいるんだなって。
それをどれだけ無視して、自分のからだの消化器官を酷使してきたか!

だから、ついおいしくて食べる量が増えると、眠くなる、眠くなる!
食事の量と質とその時間帯が消化にもろに影響を与えて
消化のメカニズムは睡眠にも影響を与えるって、ほんと体感で初めて知った。

食べ過ぎれば、からだは重くなってじっとしていたいし
お腹がすけば、からだは軽くなってきて、慣れないと不安な気がしちゃうけど
でも、実は睡眠時間も短めでもすっきりできて、からだが楽なんですね。


食べなくてもいいということを知っていく体験は、
ふだん、当たり前にごはんにかけていた労力がどのくらいかを知ることでした。

ごはんにかかる時間(料理、食事、献立を考える時間、買い物)どれもが
今回の経験で、食が簡略化される分だけ単純化されて
普段どれだけ時間も労力をかけていることなのかよくわかったなぁ。

その分、わたしにとって、食の楽しみがどれだけ大切かということも
それを支えてくれる自分のからだ=食べたものを消化吸収排泄してくれるからだ
それをどれだけ当たり前に搾取し、依存していたかもわかって
食の習慣的傾向の影響力の強さを思い知らされて愕然。


だからといって、すべてをいっぺんに健康志向に守ることはできないけど
自分にはそういう強いくせ、傾向があるのだと知っていることは
自分自身をほんとうに大切に養っていく上で重要なカギだとわかって
これからたくさんの実験をしていけるテーマになったな。


からだが異常事態のサインを出すまで必要以上に食のバランスを崩すこと
それは量でも、内容の種類でも、質でも、あらゆることにおいて
自分のからだを通して行われることの全てが「快」でいられるように
意識的であることをそのために使っていきたいな。。

というわけで、食習慣や常識のリセットをして自分のお手入れしたいなら
一時的に集中した食事制限をするって効果的。。

ストイックになりきれなくても、できる範囲から始めてみると
自分のことをもっとよく知ることができるんだなって感じます。

うーん、行き詰ってきたり、わけのわからない疲労が溜まったら
また食事制限するプログラムをやってみよう。

で、酵素玄米菜食を基本にして暮らしていたら、快適になれる予感がしてます。
おしまい。

パラサイトクレンズ、明けまして2

さてさて、つづきです。


パラサイトクレンズ、そんなわけでストイックになりきれずに18日目に休止。
でも、初めてにしては、色々実験できていろんなことがわかった!
失敗は成功の母!(と、自分を励ましてみる。)

おくりものな気づいたことの前に
失敗も書いておきますね。


パラサイトクレンズの食事制限と並行で
西式甲田療法の玄米生菜食もちょこっと取り入れて
基本の食事は、こんな感じ↓でした。

 ・ 酵素玄米+ちりめんじゃこ+ごま
 ・ お豆腐+みょうがorしょうがの梅酢漬け
 ・ きゅうり+梅肉+しょうが

あとは、しいたけと昆布のおだしを飲んだり
野菜いためとか、蒸したのとか、オーブンで焼いたのとか
焼き魚、鶏肉のグリルしたの、蒸し魚とか。

あと、どうしても夫一人では食べきれないお刺身も一緒に食べちゃった。
ほんとは生魚、生肉はパラサイトクレンズ中だめなんだけど。。

それと、甘いの欲しくて甘酒(麹の方の。ノンアルコール)も飲んじゃった。
クレンズ中は、発酵させたものもだめ、ってたしか書いてあった気がするのだけど
プレーンヨーグルトはいいのに、なぜ発酵食品はだめなの??
と、はてながいっぱいで、飲んでみちゃった。
豆乳でなるべく薄めたのだけど。。

あと、ピザも焼いて食べちゃいました。
小麦粉もチーズもだめよ、って書いてあるのに、でも食べちゃった。
ほんと、ゆるゆるだ。

食事制限のシートは英語であるのもあるし、アメリカの食文化での制限だから
日本人がするときは日本の食文化とどうすり合わせるかがポイントな気がしてきた。


でーも、ほんと、実験でおもしろかったな。
わかったことは、つぎにつづく。

パラサイトクレンズ、明けまして1

8月25日から始めていたパラサイトクレンズと少食や食事制限を
9月11日に休止してみました。

のべ、18日間、かな。
あと4日間分残ってますが、またの機会に。

休止したきっかけは、食物アレルギーが何かのせいで出てきちゃったから。。
口から食道にかけての粘膜がずーっと腫れちゃって、サプリメントが飲みこめず
これは一旦お休みしてもいいのかもしれないな、と感じて。

パラサイトクレンズをしようと決めたとき、食事制限のことをまったく知らなくて
ただハーブのカプセルを飲めばいいだけなら簡単!って始めちゃった。

でも、飲み始めてから並行した食事制限が有効なことや
その内容のきびしさ(←わたしには!)を知って、びっくり&実験気分でわくわく。

あんまりストイックになりすぎてしまうと、食事の団欒がなんだか味気なくなってしまうので
基本的には果物や砂糖をさけたり、食べたらいけないものを避けるようにして
なるべく一緒に食べられるものを工夫したのだけど、夫には不評だったようで
わたしの方がなんだか居心地わるくなってしまって、後半はゆるゆるにしていました。

小麦粉がだめ、となると、麺類、天ぷら、お好み焼き、パン、ピザ、ケーキなど
けっこう多くのものが食べられなくなるんですね。

今年の夏は猛暑だったこともあってか
野菜の種類も有機無農薬とか自然農のものだととくに限られていて
きゅうり、なす、ししとう、つるむらさき、空芯菜とかそんな感じで
生食しやすいものがなかなかなかったので苦心しました。

自分の家のベランダ菜園のつるむらさきを食べたり
もやしや海草、しいたけを生で食べたりしていました。

ふつうの野菜でもまぁいいか・・・と、妥協してトマトやアボカドなども食べたり
暑すぎてエアコンのない我が家では難しいことが考えられず
あとは生ナッツを浸水させたのをつまんだり、プレーンヨーグルト食べたり。

パラサイトクレンズするのは、もしかしたら夏よりも
野菜が豊富な秋からの方が快適だったかもしれない、なんて思ったので
また、チャレンジしてみたいなと思ってます。


それにしても、なによりも、大好きなスイカといちじくを我慢するのがきつかった。。
スイカはがまんできなくて、皮に近い甘みのすくないところを食べて
甘くなってくるところから真ん中は夫が食べる、ということになったり。


でも、食事制限をしてきつかったことばっかりじゃなくて
ちゃんと受け取れたギフトもいっぱいあって、それがよかった。

それは、この次に書こうと思います。

結果と、今していることと

いや~、そういうことだとは気づいてなかった。
皮がむけるみたいに、つるりと気がついた。


結果って、先に気にしてどうこうしようとする対象じゃなかったんだね。

いや、知ってはいたけど、ほんとには理解できていなかったよ。


今までずーーーーーっと、結果を気にしてやってきたんだなって。
どう思われるかっていうのもそうだし、どうなるかっていうのもそう。

そんなのさ、わからないのに。


ただ、今の自分がどう歩んでいきたいか、どう在りたいか
それがまず先にどーんとあってもいいのでした。

その上で、どう関わったらどんな風に自分が役立てるのか。

喜んでベストを尽くしてもおつりがきちゃうくらいの気取らない心がまえで
ただ、今できることをしてみることを積み重ねるだけ。

それだけでよかったんでした。

とってもシンプル。


シンプルだけど、奥が深い。


そういうふうに居ると、結果なんてどうでもよくなる。

正確に言えば、結果はわたしのしあわせを脅かすものではなくなる。



結果は結果でしかなくて
それは、自分のしあわせとは直接の関係がないのだ。

ただ、自分が結果に依存しているとき、結果に一喜一憂しちゃうんだな。

結果は、自分がしたことの後についてくるもの。
だったら、自分の満足がいくように、納得できるようにやったら
結果はどうであれ、自分はもうすでに満たされているから
やってきた結果をすなおに受けとめられる。


ってことは、それまでわたしがどれだけ
自分の満足のいくように、納得のいくようにベストをつくしてなかったか
ってことになる。

そもそも、ベストを尽くすことそのものが、自分の喜びであればいい。
そういう風にベストを尽くすことが、最善っていうんだな、きっと。


自分に疑いを差し挟むんじゃなくて
ただ、自分のしていることに関心を向けながら励ましつづけること
そうして、今の自分にできることを充分にやったら
それだけでもう気持ちがいい。

それは相手や事象に対してのまなざしでも、きっと同じこと。

どうせやるなら、気持ちがいい方がいいもんね。


その、「快」の感覚ってものすごく重要なものなんだと思う。

次のアクションを起こすためのモチベーション
つまりは、エネルギー源になってくれるものだから。

それが枯渇しちゃうように、もったいぶって嫌々やるから
どんどん自分が小さく消えていっちゃうんだな。


燃え尽きてしまうほどの激しさとか厳しさじゃなくて
自分が「快」な加減での最大限を楽しんでいかれたら
自分もまわりも、みんながハッピーになっていかれる気がする。

それってすごく健康的なことだ。


循環させるって、きっとそういうこと。

そんな風に思う今。
なんか最高にしあわせだな。


気がつけるって、ほんとおくりものだ。
なんだかクリスマスみたい。

そういう大人になるって、たのしいな。

そういうおめでたい大人でいこう。

2010年8月31日火曜日

甲斐性をもとう。

このところのわたしのテーマ。
「甲斐性をもとう。」

いったいどんなんだ?と聞かれても、
うすぼんやりとしか答えられないけれど。


たとえば、

相手がしてあげたがってたら、にこにこやらせてあげる甲斐性をもとう、とか

周りに自分を決めさせるように待ちでいるんじゃなくて
自分からにこにこ動いて全体を気持ちよくできる甲斐性をもとう、とか

自分も含めてそれぞれがにこにこしていられる内に
爽やかに切り上げる甲斐性をもとう、とか

できることを楽しみながら、にこにこ有形無形の贈りものを
さりげなくわくわくしながらできてしまう甲斐性をもとう、とか

関係性がヘルシーでいられるよう
気遣ったり行動できる甲斐性をもとう、とか

そういう軽やか楽しげな甲斐性をもってみたい。


そして、書いてみたい、「趣味:甲斐性」。←なんだそれ。



まだ、そんなにないけど、だんだんバリエーションを増やしていきたい。
あんまり気張らず欲張らずに、できる背伸びを楽しみながら。


さて、どんな甲斐性がだんだん増えていくんだろう。
とっても楽しみ。

言葉が体験になって腑に落ちる。

完璧じゃないってことを受け入れるって、そういうことか!

と思ったり

その言葉の意味って、そういうことなのか~!

って腑に落ちることが、ずばばばばとやってくる。



それが面白くて、わたしは生きてるのかも。

それが楽しみたくて、
わからなくなったり、わかったつもりになったり、
色んなことをしてみてるんだな。

自分っていじらしい。



なんか、面白すぎる。

つまらないとか、苦しいのあとには、
必ず腑に落ちるカタルシスが来て
「おもしろい!」が立つ。
いや、まき起こる。

でも、瞬間的、電気的にやってきて
しがみつくとなくなっちゃうし
ついていっちゃうと情報過多でハイパーになっちゃう。

どっちも長続きしないけど、おもしろい。


ほんと、こどもみたい。


ははははは。(←宇野千代風)



でも、これって、役者がせりふとシンクロし始めて
何かがおりてきた!って感覚になるときと一緒かも。

言葉に、血と肉が追いついてくる。
というか、なんというか。

その言葉で、血沸き肉踊っちゃうような感覚。

たのしいな。
たのしいよな。。

そういうのが、くせになるってやつなのかもしれない。

失敗しながらいっぱい進む

このところ、叱咤激励されているような毎日。

落ち込んだり自己嫌悪する癖が、かつてのわたしの習慣だったのだけど
気づけばずいぶん育ったものだと、今の自分の穏やかさにそう気づく。


そうは言っても、とんでもない失敗や間違いをやらかすもので。

いつもめちゃめちゃ落ち込んでたけど、ずいぶん引きずらなくなった。

失敗や間違いをすることを意識的に体験しているからなのか(わざとじゃないよ)
「こうするとこうなるのか~!」って直視できるようになったからか、認識ができる。

今までは、失敗したら直視しないで逃げて
見ないふりしておいたから、あれこれ繰り返してたんだな。

やっぱり、痛い目はしっかり味わうと懲りるんだな。
ごまかしてないことにしちゃうと長引く繰り返しを招いちゃう。

そんなことを学びつつある、と、理解は現在進行形。



そういえば、運転免許の最後の試験、消防署の前で止まったのだけ減点だった。
だから、それだけはペーパーになった今もはっきり覚えてるけど、
他の交通ルールはすっかり忘れてる。

やっぱりお利口さんで通過しちゃうと覚えてないんだな。
うまく行かなかったことの方が、繰り返すし、インパクト大で覚えてる。

だから、「失敗しなきゃ覚えるものも覚えられない」とはよく言ったものだな。。

というわけで、失敗しながら、まじまじと観察して認識して
いっぱい学んで、いっぱい腑に落としていこう。
そしたら、いっぱい進んでいける。

失敗を苦にしないメンタリティを身につけることが
生きていくうえで一番大事なことなのかも。

そして、わたしには、それが全然なかったけど、だんだん育ちつつある。

そういう図太さというか、いい加減さを学ぶこと
これからもっと探究していきたい。


もっと間違って、もっと学ぼう。

そして、それを面白がろう。

2010年8月27日金曜日

節度といううつくしさ

減食を始めて、なるほどな~とぼんやり思っていたことが
さっきシャワーを浴びていて、インパクトのある「なるほど!」になりました。


というのも、食べることに節度を持つということは
おいしいものを、おいしいと思ううちに、食べるのをやめること
なのだと気がついたからです。

わたしやまわりの多くの人たちが、今までよく
「おいしいからいっぱい食べちゃおう!」
というのは、実はおいしいと感じなくなってうんざりするほど食べてました。

でも、それって、じつは、
自分の体のことも、食べ物のことも、
食べ物に関わってくれた人(作ってくれた人、生産者の人、物流の人など)にも
どこにも意識がおかれていなくて、
自分の内にある欲望とイメージだけで食べてる。

だから、そういう意味で、実は味なんて味わっていないし
その食べ物のもってるほんとうの美味しさを味わってあげられていない。

そんなことに気づきました。


それに気づいたら、あれ?これっていろんなことに共通だなと気がついて、
人間関係とか、時間とか、場とか、機会とか、いろんな物事と自分がかかわっていくとき
どんな風にかかわっているのかがそんな風にして現れるのだと気づきました。

あたりまえだと思っていたり、もっともっとと欲張って力んでみたり
そんな中で起こるのが、本来のそこにあるものの姿と自分自身を見失うこと。

だから、アレクサンダー・テクニークでも、色んな物事の核心部分は
自分のしていることに気づきつづけて、
自分がすることに意識を払いつづけることなんですね。


節度や美学、うつくしさ、侘び寂びのようなものは
そんなところに通じているのだなと思いました。


**追記**

それにしても、やせがまんがうつくしさを生むって
そういうことだったのかとこれで納得。

ただのやせがまんってことじゃなくて
「理想」があってそこに近づくための必死の努力を生む心が
その人の努力する姿をうつくしく見せるものなんだな
とわかりました。

美学って、そういうことなのか。
改めて腑に落ちて、身体感覚的にやっと理解。。

減食も3日目

パラサイトクレンズに重ねて、減食3日目。


今回の減食実験の元になっているのは、この本↓





今まで、お医者さんに教わって
スープや生ジュースでの3日以内の断食はしたことがあったけれど
回復食(普通の食事に徐々に戻していく過程)で失敗してしまって
頭で食べたいものを食べてしまったのです。


今回、体が重いな、お腹が詰まってるなと感じて
そろそろ断食を始めようと思ったとき
図書館から借りた本に「減食期間を長めに取ると、経過が楽」と書いてあって
なるほどなーと思っていたら、甲田療法を教えてもらって納得。

西式甲田療法の本を読んでみると
断食がメインなのではなくて、減食や少食がメインなのです。
それで、空腹感に慣れてから、半日断食や1日断食を、という考え方。

なんでもがんばってキッチリやりたがっては挫折するわたしには
このくらいのゆるやかなのが、一番いいのかもしれないと
水曜日から減食をはじめてみました。



まず、酵素玄米をつくるために、玄米に小豆を加えて
今回はキヌアも加えてみて圧力炊飯器で炊きました。

ほんとは3回以上おいて、酵素が充分に玄米を分解して
もちもちになってから食べるのだけれど
待ちきれないので、炊いて早々に食べ始めちゃいました。


量は、子ども茶碗に一杯くらい。
ちりめんじゃこをかけて、お豆腐と蒸し野菜と
スイカの皮を千切りにした昆布としいたけのお吸い物、
それにゴーヤに梅酢茗荷を和えたサラダ。

スイカの皮は、酸味があっても甘みはほとんどなくて青パパイヤみたいなので、
固い外皮をむいて白いところを千切りサラダにしたり、お吸い物にすると
生ごみ減量にも役立って、おいしく繊維もとれて、ちょっといい気分。



それにしても、食事療法を始めるにあたって
パラサイトクレンズのハーブが届いたからと
好奇心に負けて無計画に飲み始めちゃったので
大好きなスイカを仕方なく皮だけ食べるわたし。。

というのも、スイカ、まるまる1個買ってあって、
ほんとは食べ終わってから食事療法を始めれば良いのに
ちょっとおばかさんです。

というわけで、これから始めようという方は
ぜひ、家にある食べ物も計画的に消費して
それから始めた方が残念なことにはなりません。とほほ。。

そんなわけで、スイカの皮ばなしがでてきたのでした。
あぁ、脱線、脱線。




蒸し野菜は、餅とうきび、オクラ、ごぼう、ゴーヤー、長ネギ。
そして夫用に塩豚も最後に蒸して。


翌日は、朝はお吸い物のおだしだけ飲んで(半日断食)、
お昼と夜は、蒸し野菜を冷やしておいたのと玄米とお豆腐とお吸い物。


そんな感じで始めています。


甲田療法では、朝は澄まし汁か青汁を飲んで、
繊維や固形物をとらずに胃腸を休ませて、
胃腸が活発に動き出したお昼と夕方に食事を取るスタイル。

玄米ご飯、ごま、豆腐、小魚、海草、生野菜、味噌汁など
和食の粗食を基本にして、だんだん量を減らしていくというもの。

さらに、運動療法なども一日のメニューの中に加えられています。



胃腸が弱いのに、頭と目で、つい欲張って
色んなものを食べたくなって食べてしまっていたわたしは
どれだけ自分の胃袋に欲望のまま詰め込んで、
働き続けてくれている内臓を省みなかったか
本を読んで実際に減食してみて、改めて実感。。



減食を始めて2日目の昨日、用事をしに街中へ出てみると
パラサイトクレンズの食事制限と減食実験に興味のあるおかげで
今までどれだけのものに自分が反応していたかがわかります。

小麦や油物、甘いものがだめ、となると、
街中での色んな食べ物の匂いやセールなどに意識が傾かなくて
衝動買いや騒動食いをしなくて済むので、とても楽なのです。

もちろん、それじゃ楽しみがない、という人も居るかもしれませんが、
楽しみをより十二分に満喫するために制限期間があるような感覚で
まるで、自分の意識と行動が訓練されているようで
スッキリとして快適なのです。

お腹は減るし、食べたいなという気持ちはあるのだけれど
不思議となんとかなっているのですね。

きっと食べてしまう日常に戻ることよりも
パラサイトクレンズと減食をして体や意識にどんな変化が起こるか
そっちの方にずっと興味があるからなんでしょうね。


それに、なによりも、空腹で食べたご飯がおいしい。

遠足や合宿なんかで、くたくたになった後の食事が
それはそれは美味しいのによく似ています。


食べることを通して、今、自分の意識や
日常の在り方に気づかされているようで
アレクサンダー・テクニークにもつながってきて
面白いなぁとひたすら観察。


興味が続くぶんだけ、ゆるやかに観察をつづけてみます。
(ストイックになると、苦しくてやめたくなっちゃうから!)

パラサイトクレンズ3日目

ただ今、減食&パラサイトクレンズの自分実験をしています。


パラサイトクレンズはお腹の中に居る寄生虫を
ハーブの錠剤飲むことと、水を多めに取ることで
体の外へ出して、内臓のお掃除をしましょうというもの。

iHerbで売られているParastroyを使って初めての体験。

頼んで4日ほどで届いて、レートも安い時期だったのでラッキー!
飲んでみたら、大田胃散飲んだときみたいにお腹の中がスースーする~。



で、パラサイトクレンズなんてなぜしようと思ったかというと
きっかけは、ケーキや油物を食べると必ず重くなる肝臓や胆嚢を
デトックス(レバーフラッシュ)したいと思って。

その準備のプロセスに、パラサイトクレンズがオススメされているのです。
(くわしくは、クシロ薬局などのサイトで調べてみてくださいね。)


それで、クシロ薬局のパラサイトクレンズの情報を色々調べてみると、
わたしには大変そうな感じがしたので、検索して手軽そうだった
カプセルになったハーブを飲む方法を選ぶことにしました。



ツイッターでもつぶやいていたら
オレゴン在住のmikaさんが色々情報を教えてくれました。
(mikaさん、ありがとう!http://katieash.exblog.jp/i22/


始めようと決めて、ハーブのカプセルを買った時点では知らなかったのですが
なんと、パラサイトクレンズ中には食事制限があったのですね。

よく考えたら、そりゃそうだよね、という話なのですが。



そのmikaさんが教えてくれた食事制限の内容を知って、
ひゃー、びっくり。

小麦粉、小麦を使った製品、おしょう油、果物、甘いもの、みんなだめ。。
(そういえば、虫はお砂糖とかお菓子とかパン好きだもんなぁ。。)

そのかわり、なぜか、豚以外ならお肉(牛、鶏、ターキー)はOK
(基本オーガニックかホルモン剤不使用のもの)とか、

発酵させたものはだめとか、バターはいいけど乳製品はだめとか、
卵は時々食べても良いとか、

魚は深海の白身魚とサーモンはOKだけど
甲殻類は水銀含有の恐れがあるからだめとか。。


その辺りの制限が意外でびっくり。



そのかわり、まぁ、そうよね~、と思うのが
消化に負担のかからない、でも甘やかさない食事。

白米の代わりに玄米や雑穀がOKとか、豆製品はOKとか、

ナッツ類は基本ダメだけど
生のかぼちゃの種とひまわりの種を浸水させたのはいいとか、

生のアーモンドとアーモンドバターはいいけど
ピーナッツとピーナッツバターはダメとか。



全部英語で書いてあるので、
ちょっと理解があやしいところもあるかもしれないけれど、
それにしても、いいのとダメなの、色々びっくり。



イーストを使ったものはダメよ、ってことは
英語でイーストといえば菌全部のことだから
麹や酵母をつかったのも全部ダメなの?とか。

甘いものダメで、発酵物だめってことは酵素もだめ?とか。

まだよくわかってないこともあるので勉強中。



野菜は、生か蒸すかして、ということだったので
蒸し野菜をつくって食べたら、甘くてまたびっくり。

これなら甘いものなしでも何とかなるかも。


それにしても、フルーツもお菓子も甘味料も甘いものは全部なし!
という代わりに、プレーンヨーグルトがOK。

しかも生活を新しくすることで自分にやさしい生活を
というのが妙に納得。

自分に思いやりや愛情をかけてあげることが
甘いもので自分をごまかそうとする根本のお手入れになるから。

まさに、寄生虫的な思考や行動パターンの整理にもなる。
だから、虫下すよりも、意識改革を食からする面が大きい気もする。



mikaさんはベジ/ローフーディストだから
はじめはちょっと大変だったと聞いたけど
幸いなことに、まだわたしは制限ゆるゆるなので、笑
どんな工夫をできるか楽しんでみることに。


もともと断食や減食もそろそろかなと思っていたところだったので
面白そうだし、一緒にやってみるとどうなるのか、興味本位で実験。


減食三日目の日記につづく。

2010年8月24日火曜日

自分を整理&そうじ中

しばらくぶりのブログ。
ごぶさたしてしまっています。

ずっとずっと、自分の内側の整理&そうじをしています。


レッスンを教えたり、人と深くつながっていくにあたって、
自分の意識や習慣的パターンにくもりがあるなぁと感じて
不要なものを落としていく作業をずっとしています。


数週かひと月くらいで終わるかなとか思いきや、
何ヶ月もかかってしまって、レッスンもお休みしたまま。

ナチュラル・リーディングだけは、新しいからか
わたしの慣れ親しんだパターンからは外れていて
何も考えずに自分をクリアにしてないとできない分
自動的にONとOFFが切り替わってしまう楽さがあって
ゆるやかにやっています。


なぜ、レッスンを再開できないのかな、を見ていくと
わたしの意識の中で「教える」という行為が、
子どもの頃からの過去のデータに基づいていて
「何かを付け加えて、染めていく」という解釈になっているのです。

アレクサンダーのレッスンをするときに、
その無意識の解釈が「教える」行為に自動的にくっついてきて
わたしが心理的に反応してしまうんですね。

そうすると、レッスンを教えるということが、
「不要なものに気づいて意識的に選択できるようになるのを手伝うこと」ではなくて
「わたしがいいと思っているように相手を染めていくこと」になってしまう。

それは、わたしが望んでいるレッスンの在り方ではないし
何よりも自分が逆の立場だったら逃げ出したい。


そんなわけで、自分の心にすなおになって
教えるということについての自分の無意識の解釈を濯ぐ作業を
どうにもしないとこれから長くやっていけないと気がついて
数ヶ月のお休みをいただいています。

無意識に溜まってしまった情報を濯ぐのに
思っていた以上に時間がかかって
お気に入りの服についてしまった頑固なシミを落としているようです。

完璧になるまで待つつもりはないのだけれど
今はまだもう少し時間がかかりそうです。


もっと気楽に自由に軽やかにレッスンできるようになりたいなぁと思いながら
生真面目さをやすんで、自然の流れに任せています。

またアレクサンダー・テクニークのレッスンを再開できそうな目処がたったら
ブログとホームページでお知らせします。

2010年7月14日水曜日

依存から解放へ

この数年、依存と自立ってどういうことだろう
ってずっと考えてきました。

考えてきたというよりは
疑問を持ち続けてきたの方が近いかな。


少し前、ヨガを教え始めた友だちから
自立について大きな気づきがあったことをシェアしてもらって
それを聞いて、とってもいい刺激とショックを受けたことがありました。

わたしは一体どうなんだろう?と
改めて依存と自立についての自問自答フォーカスが始まりました。



それで浮かんできたのが

期待どおりに与えられることを当然と思って
ありがたみも感謝も心で感じられなくなってることが
依存している状態のあらわれなのかもしれない

という考え。

これには、ほんとにハッとしてしまった。


当たり前で気づきもしない
今現在の自分を取り巻く環境のよいところ
すっかり忘れて不満や問題ばかりを見ていた。



例えば

国や地域レベルでの治安面での安全が確保されていて
戦争やテロ、クーデターや恐怖政治がない、とか

空気や水などの衛生面での安心が確保されていて
蛇口をひねれば水もお湯も出て、飲んでも最小限健康を害さないし
排泄物も流されるトイレがあって、街中でそのニオイがすることもないし
ガスマスクしないでも歩き回れる、とか

食が満たされていて、飢饉にあえぐことはない、とか

帰って住む家があり、雨風をしのいで暮らすことができる、とか


そういうこと、すっかり忘れて感謝すらしてなかった。
でも、よく考えたらそれってすごく恵まれていること。




もちろん、恵まれた中であっても
さらにどうやってより良くしていかれるか考えることは大切。

だけど、文句を言って感謝すらしないのとは、それはまったく別問題。



そう考えると、普段接していたり、当たり前と思っている相手や人間関係でも
同じように相手が差し出してくれている良いものを受け取らずに
自分が欲しいものを与えてくれない!と文句ばっかり言ってきたことを反省。

与えてくれなかったのは、相手だとばっかり思っていたけれど
受け取れていなかったのがわたしの方だったんだなとわかったら
過去の自分の未熟さとしてきたことを、心の中で反芻して
すなおにその時の相手にごめんなさいと謝れたら、なんだかすっきりしました。

受け取れなかった自分を許すまでに
今までものすごい時間と朗直をかけて責めてばかりいたけれど
責める代わりに、ゆるして調和することにシフトしたら
まえよりもずっと、その相手にも自分にも気持ちが優しく居られて
今ここに存在することが易しくなってきたのでした。



そうして、改めて自立と依存ってなんだろうって思ってみたら
また違う言葉が浮かんできて

依存は、自分の行動や考えの動機の由来が自分以外にあることで
自立は、自分の行動や考えの動機が自分の内側から湧いてくるもの

だと思ったら、ものすごくすっとして納得。


今まで夫とよく言い合いになってしまっていた原因で
彼がわたしに何度も指摘してくれていたのがまさに
「人に言われたからそうするんじゃなくて、自分で考えて行動して!」
ということでした。

自分の中で自分の考えと思っていたことが
実は、周りの人に言われて知らず知らず身につけてきた考えで
すっかり自分に馴染んで自分の常識になっていたもので
それが自分が本当に思っていることと違っていたときに

「言ってることと、やってることが違うのはなぜ!?」

と、ツッコミを入れられるような「ぼろを出す」ことが現れてたんですね。
(今、これを書きながら、わたしも気がついた!)


これって、ものすごい大事なミソの部分だったんですね。
なぜなら、自分の人生を構成している行動や選択の核心部分だから。



わたしは幸か不幸か
社会に出てトレーニングをされる期間が最小限だったので
常識的にふるまうことがそんなに得意ではなくて

自分が頭で理解してる常識にしがみついて行動しようとして
心を無視して置き去りにしてしまえばしまうほど
体が熱を出したり、痛みや症状を出して動けなくなっちゃうんですね。

それって、自分の内側に行動の動機が全然ないから
まるで「おまえには、まだ体を使う許可は出せないな~」って
体に言われちゃってるよう。


でも、自分の内側に行動の動機が満ち満ちて
心が弾んで潤っているときは
常識がどうであれ、社会がどうであれ
ものすごく調子が良くなって動けてしまったりする。


だから、その分、自分のまわりの人がしているのと
自分がしていることの方向性が違うときって
無条件に罪悪感を感じたりしてたし
他人からの評価がもらえないとか
悪くなってるなって感じるとき落ち込んでた。

でも、それって、良い悪いの判断も
自分が幸せで快適に生きるかどうかの責任も
自分以外のものに決めさせて依存していたんだな
って気がついてびっくり。


会社の方針で、とか、親の厳しいしつけのせいで、とか
自分の所属するグループに自分を決めさせちゃう方に慣れているし
そっちの方がずっと楽な気がしてしまうのだけど
でも、それじゃあ本当の喜びや感覚って味わえないんじゃないかな?

そう思ってる自分に気がついてしまってから
依存して自分をまわりにまぎれこませて
長いものに巻かれて生きることが余計に居心地わるくなってしまった。

不器用きわまりないのだけれど
計算して気を使って器用に立ち居振舞おうとする在り方は
心に素直になりすぎた今の体の自分には
もう到底、長い時間続けてできないこと。

でも、まだ頭の中では
そういう器用さを自分に強いたがる自分が居るので
ゆっくりと調和していけたらなと思います。



もしも、これから自分が目指すのならば
お互いが尊重されている関係性の中で
心に従い、思ったらいつの間にか
相手への思いやりを自然に示してしまっていること
なのかもしれません。


なーんか、まとまりも何もなくなってしまったけれど
今大事だなぁと浮かび上がってることを書いてみました。

思うように、ここに書いたように
キレイには生きていかれないかもしれなくて
日常ややってくるもの中で溺れて言行不一致になるかもしれないけど
それでも、自分が感じていることやどこに行こうとしているか
何度失っても繰り返し思い直せれば
またちゃんと軌道修正していかれるのかなって思ってます。

そうやって、練習してまなびながら
ちょっとずつ進んでいかれますように。


長くなっちゃったけれど
最後まで読んでくださったあなたにもありがとう。

透明になりたい

新しいモードにじっくりと変換中です。

他者の期待に応えて思考でひた走ることから
自分の本当の心にすなおになって
今できる範囲での誠実さで生きることへ。


今までわたしは何を焦っていたのだろう、と思います。

期待に応えて結果を出すことに縛られていた信念が
無意識のうちにずっと自分を走らせていたんですね。

だから、自分本来の自然なリズムからはみ出してしまってた。

そして、自分の中の傲慢さとか、乱暴さとか
固さとか、卑屈さとかに反応して
自分の心身を不安定にしてきたんだなと気がつき始めました。

でも、それは本当に望んでいることではなくて
自分に対しても、他の人に対しても、世界に対しても
もうちょっと自分にとってちょうどいい関わり方があるんじゃないかな
そう感じて、感じたままにしたがうことをゆるしはじめました。


まだわからなくて、様子を見ているところも多いけれど
すぐに「わかろう」と急ぎたがる衝動も抱きしめつつ
わからないと感じている中に自分を置いてみるのをゆるすことは
前よりずっと気持ちのいいことになってきたなと感じています。


自分の感じていること
体感であれ、感情であれ、思考であれ、何であれ
ないことにしないで
ただ自分をスルー=透過させてあげる。

それだけでも自分がだんだんと少しずつクリアになってきて
わからないことも、そのまま味わえるようになったのかもしれません。


自分が透明であることってすごく大切なんだなと感じるこの頃です。

2010年7月12日月曜日

調和すること

ただ今の大分は大雨とカミナリのお天気で
空の龍と雷様が元気に暴れてるのかな
なんて想像しては楽しい気持ちになっています。


今日ものんびりとスカイプ・シェアリングをしました。
http://studio-saltia.blogspot.com/2010/07/blog-post.html


今日は、参加者がおひとりだったので
少し時間をずらして午後からゆるりとお話し。


そのなかで、自分自身の過去の記憶と反応についての話題になって
人が感情的に揺さぶられるときは
その人の過去の記憶=感情や体験が思い出されて
そのときの感情を追体験しているから感情的に反応するんだなと
改めて気がつきました。

そのときに、過去の記憶との折り合いを
現在の自分の意識が支配する形で言うことを聞かせようとしても
その過去の記憶がその人にとって深くショックを受けたものであればあるほど
ロデオのように乗りこなすのは難しくて
振り回されたり、振り落とされたりしてしまうんですね。


じゃあ、どうすればいいの??
ってわたしもずっと思っていました。

そうすると、不思議なもので、ちゃんと答えが与えられるんですね。


それは、過去の記憶=感情や体験と調和するということなんですね。

わかりやすく言うと、調和とは
ジャッジをしない包容する在り方や考え方、そこから表れる行動
といったらいいでしょうか。

それは、今の自分がかつての自分に起こったことを紐解くなかで
その出来事をま~るく包むように少し離れて眺めてみて
そのときの自分の思いを受け入れてゆるしてあげながら
そのときの精一杯を尽くしたことを慈しむこと
と言い換えることもできるかもしれません。


ここでポイントになるのは
このプロセスの中に、今の自分という視点と
過去の自分という視点の二つが存在することです。

もしも、過去の自分の視点のままで
過去の自分と向き合っていたのなら
「もっと~できたはずなのにしなかったから」とか
「もっと~すればよかったにやらなかったから」と
自分をジャッジして責めることで
自己嫌悪スパイラルにはまってしまいます。


けれども、ここで今の自分という視点を新たに加えてあげると
映画やドラマを見るように、もう少しやわらかな目で
かつての自分や出来事を見てあげられるかもしれません。


過去の記憶と調和していくうえで
自分を無条件にゆるし、受け入れてあげることは
とても重要で大切なことです。

これができるようになればなるほど
自分にだけではなく、周りの人にもやさしく強くなれる
といっても過言ではないと思います。

どこかで自分をジャッジして、責めたり、嫌ってばかかりいると
知らず知らずそんな風に周りにも接してしまったりして
逆にまたジャッジされたり、責めたり、嫌われるんじゃないかと
恐れている体験を集めてきてしまったりするのですよね。
(見つかったらどうしようと思っていたら見つかったり、
 怒られたらどうしようと思っていたら怒られるようなこと。。)

だから、自分の中の考え方や在り方の整理として
過去の記憶と調和していくこと=仲直りしていくことが
不必要な心身のエネルギー浪費を減らして
本来持っていた分だけ能力を発揮していく助けになるので
実際に試してみる中で欠かせなくなってきています。


これは、アレクサンダー・テクニークの原理にある
inhibition(抑制)やNon-doingの在り方や
Non-violent Communicationの考え方とも共通するように感じています。

ほんとうの真実のような、核心となる部分は
どんなものでもみな共通しているのかもしれませんね。




過日読んだ二冊も、この在り方の理解をサポートしてくれています。


ホ・オポノポノで有名なヒューレン博士の本『ウニヒピリ』




『愛と癒し ジャン・ポルスキーの生き方を変える癒しの12の原則』

2010年7月3日土曜日

【無料】スカイプ・シェアリング

ただ何を目的とするでもなく、解決しようとするでもなく
ただ浮かんでくる想いを声と言葉にのせて自分を透過させる
そんなシェアリングの会をしたくて開催してみます。


現在、わたし自身も、自分の内側を整理する必要があって
シェアリングする機会や場を求めています。
ですから、わたしも参加者としてその場に入ります。


自由で快適なそういう場を自分が作って始めてみるのもいいかもしれない
そう思って、力を抜いたゆるやかな実験的な試みです。



ワークショップのように何をテーマとするわけでもなく
ただ、それぞれの話せる持ち時間の大枠を決めて
その間自由に浮かんできたことをお話する
ということをしてみようかと思います。

時には黙ってしまってもいいし、歌ってみてもいいし
朗読してみてもいいし、マシンガントークでもいいし
泣いてもいいし、暗くてもいいし、明るくてもいいし
ただ出てくるままに自分の内側の流れにまかせてみましょう。

話しているうちに、今日の調子はどんなかんじなのかな、と
自分や他の参加者の人の何かに気がつくかもしれません。


内側の流れに身をまかせて話している合間に
眠っていた「ほんとうは~したかったのに」
という想いや感情が表れてくるかもしれません。


何事も決めることなく自由にたゆたううちに
それぞれが新たな可能性に気づいて
元気を取り戻していかれたらいいなとねがっています。



お時間のある方、お話したいことがたまっている方、興味のある方
初めての方、どなたもよろしければご参加ください。


※参加される方は、この時間でそれぞれが話した内容を
 そっと胸にしまって秘めておいてくださいね。
 それぞれが安心してお話できる環境作りに、ご協力ください:)




7月5日(月)10:30~12:00

7月7日(水)13:30~15:00

7月12日(月)10:30~12:00

7月15日(木)14:30~16:00

7月20日(火)11:00~12:30

7月22日(木)11:00~12:30



定員は3~4人くらいで考えています。




お申し込みは、前日の22時まで
メッセージにて以下をお知らせください。


名前(ふりがな):
携帯連絡先:
スカイプ名:
呼ばれたい名前:
参加希望の回:




*スカイプ・シェアリング開始の流れのイメージ

 こちらから参加者の方へ、スカイプのコンタクト追加リクエストをお送りしますので
 あらかじめ承認しておいて下さるとスムーズです。

 当日、開始時間にこちらから参加者の方へスカイプで呼びかけます。
 緑の通話ボタンを押して応答していただければ
 このシェアリングの会に参加できます。

 音声通話のみでカメラは使いません。
 どうぞ気軽にご参加ください。




*スカイプをお持ちでない方へ

  まず、お使いのコンピューターにスカイプをインストールしておいてください。
 スカイプのインストールはこちらから(無料です)。

  スカイプで使用できるイヤホンマイクをご用意ください。
  (お近くの量販店などで1000円くらいから購入できます。)

  スカイプを立ち上げて、必要な設定を行ったらスカイプ名をお知らせください。






ご縁のある方のシェアリング参加をお待ちしています。

2010年6月28日月曜日

言語化すること、言語化しないこと

言葉を介さないで体験すること。

言葉から体験を介して理解すること。

体験を介して言葉にしていくこと。

体験をただ言葉へ変換せずに味わうこと。



理解は、自分の理解しているようなかたちでやってこないこともある。

思いがけないときに理解がいきなりやってきたりもする。

理解そのものが意識にのぼらずに染み渡っていくこともある。




そのどれもが、尊くて味わい深いもの。

必要にしたがって起こっているなら、今起こってることを信頼してみよう。

2010年6月23日水曜日

日常にもどってきました

8日にケベックから戻ってきて、すっかり日が経ったのに日記もごぶさた。

しばらく時差で5時起き生活が続いたと思ったら
もうすっかり7~8時のあいだに起きる生活に戻ってしまいました。





それにしても、カナダ旅行、夢のようでした。
思い出せば、緑、花、緑、緑、花、緑。。

自然豊かで、きっちりと景観&区画整理された町が印象的でした。
機上から眺めると、まるでおもちゃの町並みのよう。

離陸と着陸のときで、写真が撮れなくて残念だったけれど
気づけばデジカメの画像データが650枚くらい!

ほんとに、おのぼりさんしてきました。







行く前には、あれもこれももっと色々予定を入れて・・・とか思っていたけれど
かえってあんまり決めずに行ったからこそのんびりできてよかった。

結局、月曜の夜にケベック入りして、土曜の未明にトロントへ向かったから
ケベックには5泊もしていた。。
その後、ストラットフォード1泊、ケベック空港ちかくに一泊。
すごいな、ケベックにのんびりぜいたくでした。






城壁に囲まれた内側の旧市街が世界遺産でまるでヨーロッパ。

歩くとほんとに花や植木がたくさん。
植物のお世話をしている人が、街のそこここに居て
いつもどこかで花や緑を植え替えたりしてきれいに整えている。

古い建物に、フレッシュな植物のコントラストが美しくて
それであちことで写真をとってばかり。






ケベックの街の石畳をずっと降りていった先
港のそばにちいさな産直っぽい市場があって
そこが本当にハーブと花だらけ!!

市場って聞いていたから、食べ物ばかりと思ったら
半分の半分は花、半分の半分は野菜の苗とハーブ。

のこりは、野菜やハチミツ、メープルシロップや、パテやさん
オリーブやチーズやさん、魚屋さん、石鹸やさんなどなど。

住んでいたら、ほんとに毎日通いたいくらい!
ケベックだからか、なんだかのんびりしているのです。

滞在中、1回一人で、1回夫婦で行って
市場の雰囲気にわくわくして興奮して帰って来た。






市場といえば、トロントの市場が活気があってすてきでした。
ケベックよりも人も規模も大きいから、ごった返していて
雑多で、種類も多くて魅力的。

りんごジュースが1リットルで3ドル、2リットルで4ドルとかいうので
おもいきって2リットルを買ってみたり。(翌日朝までに飲み干した!)

ハーブとフラワーエッセンスを売ってる魔女みたいなおばさんが居たり
でっかいパンやハムが売られていたり、ほんとに面白い。


(トロントのセントローレンス・マーケットの土曜市)



焼きたての厚切りベーコン2枚買ったら、ステーキみたいだったり
ベーグルがふかふかでおいしかったり
ブラックベリーが山盛りで売られていたのを買い食いして指が黒くなったり。

たまたま行った日が土曜日で、火~土曜にいつもやってる市場に加えて
土曜だけしかやってない市場に行かれて、ラッキー。

電車の時間が迫っていたから、全部見ることはできなかったけれど
市場ってやっぱりたのしいな~!とウキウキして。



(ストラットフォード駅)



そのウキウキのまま特急に揺られて2時間半。
ストラットフォードへ着くと、また全然趣がちがっていて。



(ストラットフォードの駅近く)



それにしても、今回の旅は
夢見ることを思い出させてくれる旅でした。



(ストラットフォードの川辺)



日常に埋もれちゃうと、無意識に可能性を制限していくけれど
そういうところにかぶっていた蓋をとりはずしたような。

は~~~~~~~~~~~~っ

って深く自分が思いもしなかったことに気がつくような
そんな旅でした。

今もその効果が残っていて、旅の名残がまだ自分の内側に。




時系列に思い出すと長くなるので
このつづきはまた別の日記で。

2010年6月2日水曜日

ケベックより

ただいまケベックに滞在中です。

日本に比べてひんやりしたお天気で
4月の東京くらい、5月の札幌くらいな感じでしょうか。


サン・ルイ門です↑

ケベックは世界遺産に指定された街というだけあって
景観がとても美しいです。

では、これから夕飯を食べに出かけてきます:)

2010年5月20日木曜日

カナダ旅行へ

今月末から来月上旬、カナダに旅行しにいきます。行き先は、モントリオール、ケベック、ストラットフォードの予定。ケベックでの夫の研究発表にくっついて観光&遊学(?)してきます。


なにより、カナダは初訪問。初めてのところはドキドキします。じつはとても小心者なので、ワクワク♪よりドキドキ!が大きい!!

旅行に行くだけなのに、未知をこんなにも怖がるわたしって(笑)!!未知なことほど不安や心配を持ち出したがる過去のくせに気がつくほどに、そのこわがり方の一生懸命さが愛らしくて笑えてしまう。


20歳そこそこのころは、怖いものより好奇心が大きかったけど、もしも、わたしの中で年を重ねることが好奇心を小さくするものだとしたら、そんな年の重ね方はしたいと思ってないんだよ~~。。と自分に主張。

と、こんなことの中でも、自分のパターンがわかるから面白い。


さて、未知のおそれをわくわくに変容させるためには、その先で何をしたいかの望みを見つけることが重要!!

というわけで、ひとつは街の景観を眺めて歩くこと。もうひとつは、ストラットフォードで演劇祭を見ること。http://www.stratfordfestival.ca/OnStage/productions.aspx?id=9102&prodid=31464#nullそれから、アレクサンダー・テクニークのレッスンを受けてくること。なんていう目的を見つけてみました。


なのですが、それだと楽しみでもあるんだけど、若干喜びのパンチが足りていないような感覚が。。。

それなので、自分でも調べてはいるところなのですが、もしよろしければ、食事や観光、遊びのアクティビティなどの楽しみで、モントリオールやケベックでおすすめがありましたら、ぜひどうぞ教えてください :)

ふたりで楽しめるのと、ひとりでも楽しめるのと、どちらも歓迎しています♪


それにしても、ケベックはフランス語圏で英語は通じないそうな。どれだけ通じないか行ってみないことにはわかりませんが、通じない中でも、どれだけ通じるかを楽しんでみたいと思います。


ふむー、書いていて、より楽しみになってきた!!やっぱり自分の持ってるエネルギーを創造的=建設的に方向付けていってあげるって大事だな~。未知だったりして不安があっても、こうやって自分を楽しくしていく工夫をしていってあげよう。

旅のプロセスも自分の可能性を開いてあげるツールだなぁ。準備と旅行、どちらのプロセスも楽しみます!

2010年5月19日水曜日

「できる」と「できない」

このところ、「できる」と「できない」について気づくことが多いです。

自分が今できないことって、自分にはできないと思った結果なんだなって。自分が今できることは、自分にはできるかもと思ってやり続けてきた結果なんだなって。


当たり前のことに感じるかもしれないけれど、これってわたしには大きい気づき。なぜなら、過去の自分が自分の可能性を「できない」に方向付けてあきらめたり放棄した結果、今のわたしにはできないという現状が表れている。

だから、できるかできないかすら考えもせずやってきたことって、当たり前にみんなできていることがあるはず。たとえば、日本語(母国語)を話すとか、お箸や鉛筆を使うとか。(違う文化圏の人からしたら、未知で難しく思える。)



わたしは、じつは自転車に乗れません。なぜなら、こどものときに、わたしは自転車に乗れないんだって決めちゃったから。それで、乗る練習をある時期から放棄しちゃった。兄の友達が自転車で事故にあったりして、こわいなって思ったり、坂と車が多くて危ないし、運転が難しくてこわかったから。

その結果、今は移動のために自転車には乗れません。私にとっての自転車は、試しに乗って少し進みながら「ひゃー!こわいこわい!」って言うアトラクション(笑)。



もうひとつのたとえば、英語。ある人は意識することなく使える。ある人は「無理無理!」って見ただけでも拒絶。

でも、これも、無理だったんじゃなくて、やってみて面白いと思う機会がなかっただけなのかもしれない。得意と苦手の分かれ道って、そんなところにあるように思います。



それなら、自分がやりたいのにできないって思ってることや、今できないことは、これから先もできないとは限らない。ためしに興味のあることでやってみたら、できるようになるかもしれない。

できないと思ってやったら、うまくいかなかったときに「やっぱりね」って思う。はじめから、自分のことも、周りのことも信じることもないし、気持ちも身体も尻込みしてるから、いつでも逃げ腰。自分の中身が入ってなかったら、やっぱり頼りなくって間が抜けちゃう。


でも、よくよく考えてみたら、未経験や経験途上の場合ってうまくいかなくても仕方ない。体験することでデータを集めて、次はどうしたらいいかなって材料にできる。だから、うまくいかなくても、何も落ち込んで自分や状況を責める必要なんてない。ただ、次に向かって、何がうまく行かないところで、どうしていきたいか、それがわかるように見直してあげたらそれだけでも勉強になる。だから、なんであっても落ち込む必要なんてないんだよね、本当は。ただ、建設的に「今回のことをふまえたら、次にはどんなことができるか」それだけを考えて準備したらいいだけ。


だとしたら、はじめから結果を限定して「できる」とか「できない」とか「失敗」とか「成功」とか考えて、自分や起こる出来事を狭めなくてもいい。ただやってみて、それが人と違う方法でも、状況でも今できることから始めたらいいだけ。どれだけの時間や労力がかかるかなんてわからないけれど希望を思い出して、ただやってみたらいいだけのこと。



だから、現状を見て「できない」とか「失敗」だとか思ったりあきらめてしまう必要はなくて、自分の希望に従ったほうがいい。そうして、いっぱい経験を積んで、これは自分にとってOKで、これは自分にとってはNGなんだな、っていうことを理解できたらいい。それが人とまったく同じになる必要なんてないし、特別に違っている必要もない。自分の素直なところを、自分が理解して行動に反映してあげられたらいいだけ。

ただ、これ!と希望の方向性を決めたら進んでみること。それが自分を「できる」に導いてくれる道しるべだなってこのごろ思って、今ちょうど新たな実験をしています。

その実験のことは、また後日。