2010年1月27日水曜日

助け合って生きている



以前、わたしは目の前にいた人たちを助けられなかったことで、
自分をずっとずっと責め続けていた。

だからこそ、わたしはもっともっと人の役に立つようにならなきゃいかん。
もっともっと自分をこき使わなきゃいかん。
自分がしあわせになるには、まず先に誰かを助けなきゃいかん。

それには、目だってはいかん。
目だったら、だれかの邪魔をしちゃうからな。


そう思っていた。


そして少し前、また誰かを助けられなくて、役に立てなくて、傷つけてしまって、
自分をまた責めて、わたしは生きてる資格がないとか、
自分に後ろ指を差して、受け取ることを拒否するようにつきつけていた。




でも、あれれ??と気がついた。




よく考えたら、恩をその人に返すことだけが恩返し、と思ってたけど、
助け合いっていうように、誰かを助けたら、助かったその人がまだ誰かを助けて、
目には見えてなくても助けることの循環ができてるんだなぁと気がついた。


わたしが悩んだら、助けてくれる人が居る、
助けてくれる人は、また誰かに助けられたことがある人だし、
わたしもまた誰か別のひとをこれから助けていくのかもしれない。


助けることで救われる。


だから、誰かを助けることができなかったことは、
その人ではなく、わたしが救われなかったのと同じなのかもしれない。

そう考えてみると、助けようとしていたその相手は、
わたしを助けようとしていてくれたことになる。



与え、与えられ、受け取っているようで与えていたり、
与えているようで受け取っていたり。


だとしたら、目の前に見えている結果だけが結果ではないのかもしれない。

もっともっと大きく広がって循環しているとしたら。



なんだか、ちょっとほっとする。


できることを少しずつ。
与え、受け取りながら、助け合いを受け取ろう。

受け取ってなかったのはわたしだった



昨日、洗濯物を干していたとき、気がついてはっとした。


だれかに「ありがとう」を言われたり、ほめられたとき、
受け取ってなかったのはわたしだった!!

(言われたら、「そんなことないよ」とか否定して謙遜したつもりになっていた。)



って。




がびーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん。







だから、わたしは報われてない、とか
どうせ評価されてないし、とか
片隅にいじけてる意識があったのか。



ひょえーーーーーーーーーーー。





はぁ、納得。





これからは、「ありがとう」とか「おかげで~できた!」と言われたり、
褒められたときは素直に喜ぼう。

それで、その体験ひとつひとつに感謝しよう。




はぁ~、すっきり!

NO-THINGNESS



みたび、OSHOカードから。





ノー・シングネス(無)

仏陀は、ほんとうに潜在能力の高い言葉のひとつを選んだ――シュニヤータ。英語、それに相当する英語"ナッシングネスn o t h i n g n e s s "は、それほど美しい言葉ではない。私がそれを"ノー・シングネスn o - t h i n g n e s s "としたいのは、そのためだ――。というのも、無というナッシングは、ただのナッシングではないからだ。それはすべてだ。
あらゆる可能性で脈打っている。それは潜在能力、絶対的な潜在能力だ。それはまだ顕現していない。だが、すべてを含んでいる。初めに自然があり、終わりに自然がある。だとしたら、なぜ、その真ん中でそんなに大騒ぎするのかね?なぜ、その中間で、そんなに心配し、そんなに気をもみ、そんなに野心を抱くのかね? なぜ、それほどの絶望をつくりだすのかね?
無から無へ、それが旅のすべてだ。


解説:

「隙間のなかに」在ると、方向を見失い、怖くなることすらあります。しがみつくものはなにひとつなく、方向感覚もなく、この先にどのような選択と可能性が待ち受けているのか、そのヒントすらつかめません。しかし、宇宙が創造される以前から存在していたのは、まさに純粋な潜在能力という、この状態だったのです。今あなたにできることは、この無のなかへとリラックスしていくことだけです……言葉と言葉のあいだにある、この沈黙のなかへと落ちること……出ていく息と入ってくる息の中間にある、この隙間を見守ることです。そして、その体験の空っぽの瞬間を、ひとつひとつ大切にしましょう。神聖ななにかが、まさに生まれようとしています。






no-thingness(無)に安らぐことが、アレクでいうNon-doingなんだなぁと納得。

今、ここ、ただそれだけ。

これから



これからはどんな風にありたいのかな

と、投げかけてぽかんと放ってあった。


そしたら、あ、そうそう!それそれ、という感じのことばがやってきてくれた。

いやいや、またしてもOSHOカードなのですけれど。







49. 親しさ

まず瞑想するがいい、至福に満ちてあるがいい。そうなったら、多くの愛がおのずと起こる。そのときこそ、ほかの人たちと一緒にいることは素晴らしく、独りでいることもまた素晴らしい。そうなったら、それは単純なことでもある。あなたはほかの人たちに依存しないし、ほかの人たちを自分に依存させることもしない。そうなったら、それはつねに友情、親しさだ。それはけっして関係にはならない。それはつねに、かかわりをもつということだ。
あなたはかかわる、が、結婚はつくりださない。結婚は恐怖から生まれる。かかわりをもつことは、愛から生まれる。
あなたはかかわる――ものごとが素晴らしくいっているあいだは、あなたは分かち合う。そして、互いの道がこの十字路でわかれるために出発するときが来たとわかったら、相手がこれまで自分にしてくれたすべてのことに、相手と分かち合ってきたすべての喜びと、すべての楽しさと、すべての素晴らしい瞬間に大いに感謝し、さようならを言うがいい。惨めになることもなく、痛みもなく、あなたがたはただ別れる。


解説:

花を咲かせているこの二本の樹の枝は互いに絡み合い、地上では落ちた花びらが混じり合って、美しい色をなしています。それは、まるで天と地が愛で橋渡しされたかのようです。しかし、二本の樹はそれぞれ別個に立ち、地と独自のつながりを保ったまま、土に根を下ろしています。こうして彼らは、成熟した、互いに楽で自然な、ほんとうの友人としてのエッセンスを表わしているのです。そのつながりには緊迫感も、困窮感も、相手をなにか別のものに変えたいという欲望もありません。このカードは、親しさというこの質に入っていく準備が整っていることを示しています。進んでいくうちに、あなたはほかの人たちがかかわっているあらゆる種類のドラマやロマンスには、もはや自分は関心がないことに気づくでしょう。それはなにかを失ったということではありません。体験の豊かさから生じるもっと高い、もっと愛に満ちた質が誕生したということなのです。それは、ほんとうに無条件で、期待や要求を伴わない愛の誕生です。







そうそうそうそう、そういうの、求めていたのでした。

そろそろ全面的に解禁しよーっと。

さっそくこたえがやってきた



一つ前の「自分のために書く」

を書いて、それからキッチンで料理をしていたら、


あ~れれ、なーんだ!
わたしは鏡に映っている何かが、だれかわからなくてこわかったのかー。

こわいと思っていた鏡をみたら、ただ何のことはない自分が映ってたのか~。

なーんだ、欠点もいいとこもいろいろあるだけで、こわいものじゃないじゃん。
なーんだ、わたしって自分のありのまま丸ごと受けるとめるのがこわかっただけか~!



と、わかりました。




あー、納得。
なーんだ!わっはっは。



わたしは、どれだけ自分を何者かにしようとしていたんだか!

オズの魔法使いのオズじゃあるまいし~。




はー、すっきりしたー。
安心した~!




わからないとか、こわいとか、そういうのって
思いきって中身がなんなのか見ちゃうと、ものすごい簡単だ!

と、思えるくらい、思えばずいぶん成長したもんだ。
たいしたもんだ、自分!!




こわがりのあわてんぼうなちっぽけな自分も、
肝の据わって大らかなでっかい自分も、
どれもあってもいいんでした。




バランス取れてなくても、不完全でも、いぶかしがられてもいいじゃない。
自分でOKだしたらいいし、いつでも、今できる分の最善をつくしたらいいんだしね。



気にしないには、気にすることをやめるだけでいい、ってわかって、
そしたら気にならないもんだー!って感覚がからだでわかってスッキリー!!




あ~!ごほうびに今夜はゆっくりお風呂にはーいろっと。






という日記を書き終わってから、
なんとはなしにOSHOカードをひいてみたら、こんな。





再誕生

禅では、あなたはどこからも来ていないし、どこにも行かない。あなたはまさに今、ここに在る。来ることもなければ、行くこともない。あらゆることが、あなたのそばを通りすぎていく。あなたの意識はそれを映しだす、が、それと一体化することはない。
ライオンが鏡の前で吠えると、その鏡も吠えると思うかね?あるいは、そのライオンが行ってしまい、子どもが踊りながらやって来ると、鏡はライオンのことなどすっかり忘れて、その子といっしょに踊りだす――鏡は子どもといっしょに踊る、そう思うかね? 鏡はなにもしない、ただ映しだすだけだ。
あなたの意識は鏡にすぎない。
あなたは来ることもなければ、行くこともない。
ものごとは来ては去っていく。
あなたは若さを迎え、年を取る。あなたは生き、死んでしまう。
こうした状態はすべて、意識の永遠のプールに映しだされたものにすぎない。


解説:

このカードは、フリードリッヒ・ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で述べている意識の進化を表わしています。彼は駱駝(らくだ)、ライオン、子どもという三つのレベルを語っています。駱駝は眠たげで、怠惰で、自己満足しています。自分はお山の大将だと考えて妄想の世界で生きていますが、実は、あまりにも他人の意見を気にしすぎて、自分自身のエネルギーはほとんどありません。その駱駝から現われ出るのがライオンです。これまでずっと生を見逃してきていたことがわかったとき、私たちは他人の要求に対して「ノー」と言いはじめます。集団から抜け出し、独りで、誇り高く、自分たちの真理をうなりをあげて吠えるのです。しかし、これで終わりではありません。最後には、おとなしく従うこともなければ反逆することもなく、それでいて無垢で、自発的で、自分自身の実存に真実である子どもが現われ出ます。まさに今、あなたがどのようなスペースにいようとも――眠くて憂欝であろうと、あるいは吠えながら反逆していようと――それを許しさえすれば、それはなにか新しいものへと進化していくのだということに気づいていましょう。





うーん、さすがすごーい!
おもしろーい!!

2010年1月26日火曜日

自分のために書く



自分のために書く、ということ。
いってみれば、
こういう場でも自分への手紙のような文章を書いてさらすこと。
ということをしばらく忘れていた。


自分のために、誰かのために、何かのために、
大義名分みたいな、かさばる重さは置いておいて、
すなおに楽しんで書く、って大事だな。


どう見えるかとか、どんな風に思われるのかとか、
そういうのも超えて、
ただ気にしない≒気にならなくなってみる、
そんなゆるさで書くのをゆるす感覚。


と、ふたたびそんな思いをとりもどす。




「何か」にならなくていい。

それって努力するのをやめるとか、さぼることじゃなくて、
エネルギーを傾ける方向性を変えるということだな、
と気がついた。




わたしには、こうして表現することがやっぱり大切。
今の自分が求めているやり方で自分を表現することが
やっぱり必要。




わたしは「自分」のありのままに戻っていくことがこわい。

自分を知りたいけど、「自分」そのもの、
ありのままになることがこわい。

はだかになることがこわいように、そうあることがこわい。


と、今、
ほんとは気がつきたくなかったのに、という想いと一緒に
はたとそんなことに気がつきはじめてしまった。




これからどうしよう。
これからどうしたい。
これからどうする。



穏やかにそんなとまどいもある。




一体なんなんだろう、という水面下の揺れみたいなものと
抗いがたい
「ここまで来てしまったら、もう後戻りはできないよ~」
という腹の据わった感じ。



こりゃ、なんだ?なんだろねー?




何がしたいのか、どうしたいのか、
わかっているのにつかめていない。

近くにいて、何となーくすごく大まかな予想ができるのに、
布がかかっていて詳細がわからない、
ものすごくでっかすぎる何かがあるような。


今をジャッジなしに、今できることをしたら、
そのうち表われるのだろか。







吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー。

吐いてー、吸ってー、吐いてー、吸ってー。



掃いてー、掃いてー、きれいにしたいだけすっかり掃いてー。

磨ってー、磨ってー、もういらない威張った角ばりを磨ってー。




日々をそんな風に暮らして。

何の変哲もないことのしあわせ。

そして、そのむこうにやってくるもの。




何だろう。
何かしら。


わくわくととまどいの向こうがわへ

あべこべ 発見



そこにあるものは確かに「ある」のに、

ないことにしていたこと。


今ここにないものを、「ある」ことにしていた。


ということに気がついた。





わー!なんて、あべこべっ!!!





気がつくたびに、毎度びっくりするのだけれど

今回も「また、おまえか!!」という心もち。




ここに「ある」ということを知るためには、

「ない」ということがどういうことと

体験的に出会うことが必要で、


それがあってはじめて、

「ある」ということが存在できる。





はー、だから昔のひとは「ありがたい」

ということばを感謝の意味にしたのかも。






「ない」があるから、「ある」がある。

「ある」があるから、「ない」がある。




「ある」があって、「ない」があって、

その「あいだ」もあって初めて

バリエーションという豊かさがうまれるんだな。





なんて思うと、

「ある」のも「ない」のも、その「あいだ」も

どれもとってもありがたい、と思えてきます。

2010年1月16日土曜日

焦点をしぼりつづけること



何かをしていると、焦点がずれていってしまうことがある

わたしのわるいくせのひとつ



目的のために装飾して武装してるうちに、わからないくなる

そんなのいらないのに



ほんとはね、大事なことだけできればいいんだよ

全部できなくてもいいんだよ


と、自分にいってあげよう



目的ができれば、形式なんてどうでもいいぞ

かっこわるくて見栄えがしなくても、それでもいいぞ

ありのままで燃えてる心だけ差し出そう



そこがずれると焦るのだ


焦点がずれると、焦る・・・


同じ漢字なのに、遣い方がちがうとこんなにもちがーう!



同じ労力使うなら、焦るかわりに、焦点しぼろう

2010年1月11日月曜日

芸術は「聖職者」によって



今日、TVで辻井伸行さんの特集を見ました。

その中で、メナヘム・プレスラー氏が話していた言葉が印象的でした。


テクニックを競うのはスポーツです。
音楽は芸術です。
芸術は「聖職者」によって表現されなければなりません。

コンサートホールというのは、演奏者にとって聖域たる場所であり、演奏者にとっての神は、モーツァルトやベートーベン、ブラームス、ショパン、リスト、ドビュッシーなどの作曲家たちであり、彼らの曲を美しく演奏するのが「聖職者」です。
「聖職者」は、これらの作品の価値や、生まれたときの衝撃を今に伝えるのです。




役者も、ダンサーも、同じだなと思いつつ、
これを書いていて、ふと気がつきました。

何かに情熱と身を捧げる人というのは誰であれ、それが何であれ、それをする空間、瞬間、体験そのものが聖なる質を帯びてくるもので、だからこそ職人芸と呼ばれるような人たちやその技、彼らの居る場所が美しいのだなぁ、と。

同じことを1万時間以上やり続けると、そのチカラが発揮されて世に出る、という理論もあるのも、こういうところから出てくるのだなと思いました。

わたしもまだまだ時間をかけて、彼の言うような「聖職者」のような職人になっていけたらと思います。

2010年1月6日水曜日

「そうするしかない」


ふとしたことで、石井ゆかりさん劇作家の阿藤智恵さんをインタビューした文章を読んだ。

そのなかの阿藤さんの語ったことばの一節にどきりとした。



役者というのは、上手か下手かではない、とそのとき思ったんです。

どんなに辛くても、疲れていても、舞台の上でお客さんを前にすると、

そこでどんどんチャージできるのが、役者なんです。

舞台があってお客さんがいる、というそのシチュエーションで光合成できる人、

というのがいて、それは私とは民族が違うんだ、種族が違うんだ、と思ったんです。





それを受けて、石井さんは自分の仕事に想いをはせていて、それがまた洞察にすぐれていてすごく面白いのだけれど、何よりこの部分に「こたえ」があったように感じました。

わたしが舞台を降りた理由もそんなところにあるような気がして。


わたしは物心ついたころから、舞台の作品を作り上げる生身の人間の真実が知りたくて、それを調べたくて今まで来ていて、それはシンプルにすれば、人間ってどんなものか知りたい、という好奇心に支配されているようなものです。

だから、演じる人間の舞台での真実が知りたくて体験するために舞台に立っていたけれど、それがある程度わかったら、舞台そのものにはあまり興味がなくなって、そこに立つ生身の人間がどうしたらより魅力的で活きてくるのか、そっちの方に意識が移ってしまった。

それで、わたしはアレクサンダー・テクニークの道に進んで、未知にたくさん出会いながらここまできちゃったわけですが、たしかに、これ以外しようがなかった、と言わざるを得ません。


みんな「そうするしかない」人なのであって、他のことは、できそうでもできないのだ。

という石井さんのことばは言いえている。


「そうするしかない」自分を受けとめて、それを楽しんでいく生き方をしていかれたら。

きっとシンプルで面白くて奥深いのだろうな、と思いました。

2010年1月5日火曜日

今年の抱負に方向性


今年の抱負は、

自分が心から楽しいと感じられること、
面白いと惹かれることだけをすること、

そして、やると決めたことは心から楽しんですること


と思っていたら、ネットでこんなカードが出た。







3. 創造性

創造性とは、自分がしている行動にあなたがもたらす質だ。それはひとつの態度、内なるアプローチだ―あなたがものごとをどう見るかという・・・。誰もが画家になれるわけではない―また、その必要もない。誰もが画家だったら、世界はひじょうに醜いものになるだろう。生きることなどむずかしくなる。そして、誰もがダンサーになれるわけでもない。その必要はない。だが、創造主(クリエイター) には誰でもなれる。
なにをしようとも、あなたがそれを喜んでやったら、愛にあふれてやったら、もし、やるというあなたの行動がたんに経済的なものにとどまらなかったら、そうであったら、それは創造性にあふれている。もしあなたの内側になにかが、そこから成長するなにかがあったら、もしそれがあなたに成長をもたらしたら、それはスピリチュアルなものだ。創造性にあふれ、神性を帯びている。
創造性が増すにつれて、あなたはもっと神性を帯びるようになる。世界の宗教は口を揃えて、神は創造主だ、と言っている。私は神が創造主なのかどうか知らないが、ひとつだけ知っていることがある―創造性が豊かになればなるほど、あなたは神々しくなる。あなたの創造性がそのクライマックスに達すると、あなたの生全体が創造性にあふれるようになると、あなたは神のなかで生きている。だから、神は創造主に違いないのだろう。創造的な人びとは、これまでもっとも神に近かったのだから。
自分のすることを愛するがいい。それをしているあいだは、瞑想的であるがいい―それがなんであろうとも!


解説:

上から差し込む神の光の下にある火と水のアルケミーによって、このカードの人物は創造力に文字通り「乗っ取られ」ています。事実、創造性を体験することは、神秘へと入ることです。テクニック、熟練、知識は、ただの道具にすぎません。鍵は、万物の誕生を活気づけるエネルギーに自分をゆだねることです。このエネルギーには形も構造もありませんが、それでも、すべての形と構造がそのエネルギーから生じます。あなたの創造性がどんな形を取ろうとも、違いはありません―絵を描いたり歌ったり、庭に木を植えたり料理したりすることかもしれません。大切なのは、自分を通して表現されたがっているものに対して開いていることです。私たちは、自分が創造したものを自分のものとして所有することはない、ということを覚えておきましょう。それらは私たちのものではありません。ほんとうの創造性は、神性なるもの、神秘なるもの、そして知ることのできないものとひとつに結ばれることから湧き起こってきます。その時こそ、それは創造する者にとっての喜びであると同時に、ほかの人たちにとっての祝福でもあるのです。





あまりにも解説のことばが美しいので、書き残し。

『大切なのは、自分を通して表現されたがっているものに対して開いていることです。』

なんて、いちばん大事なことだなぁと思います。

あぁ、今年はそういうものにオープンで素直=あえて阿呆でいよう!!

2010年1月4日月曜日

抱負におせちに元旦お菓子


年末から今までのことを振り返る時間を過ごしていました。

そこで感じたことは、今年は自分が心から楽しいと感じられること、面白いと惹かれることだけをすること、そして、やると決めたことは心から楽しんですること。

今まで経験してきたなかで、自分が喜んでできないことをすることは、自分にとってだけではなく、周りにとってもマイナスが多くなって、お互いに満足のいく結果を生み出せないということ、逆に自分が喜んで期待なしに夢中になってやったことは、結果に関わらず全体にプラスを生み出していることを、やっと認められるようになりました。

そんなわけで、今年の抱負が出てきたのでした。



1年前や2年前、どう過ごしていたか、何を考えていたかなどを振り返ると、自分自身やまわりの環境がどれだけ変化したのか実感します。

2008年末から2009年のはじまりは、まだホノルルに住んでいて、親戚(日系2世、3世の)の集まる新年パーティーに餃子とミニどら焼きを作って持って行ったことを思い出しました。


今年は大分でお正月を迎える!ということで、はりきっておせちを作りました。

ハワイでは日本の食材は手に入るけど、やっぱり日本、とくに魚や野菜や果物が豊富で美味しい九州にはかないません。

というわけで、「自分の家庭を持って、おせちを手作りする」という夢を叶えることができました。





作ったメニューは

 伊達巻、錦卵、長老喜(梅しそ酢漬け)、たいの昆布締め、
 えびのうま煮、黒豆、豆栗きんとん、お煮しめ、なます、
 たたきごぼう、昆布巻き、明太大根巻き、田作り、
 ゆずのはちみつ漬け、くわいの黄金煮、
 きゅうりとセロリと大根菜のピクルス(ディル風味)


作るのは数日がかりで全体がどんなバランスになるか、ぴんときていませんでしたが薄めの味付けが日を置くことでなじんでとても美味しく食べることができました。

こんなに満足して、毎食美味しいと楽しめたおせちは初めてかもしれません :-)


お雑煮も、1回目はハマグリ潮風味、2回目はえび出汁+白味噌+えそつみれ、3回目は関東風しょうゆだし+鶏、と種類を変えて満喫しました。






さらに、大分の竹田にある但馬屋の和菓子で、元旦にお茶の時間も。




(左上が竹、右上が武家屋敷、中央は梅、左下は松、右下は九重(ここのえ)です。)

松、梅はねりきりにこしあん、竹はようかんに白あん。
九重はあわゆきにゆずがかかっていて、中は抹茶あん。
そして、武家屋敷は蒸し菓子。

ねりきりやあんこはとてもしっとりやわらかで上品な甘さでしあわせ~ :-)
これだけの美味しさでひとつ税込み250円は良心的。

大分でお茶を点てるときのお菓子には、但馬屋に注目です。



今年は「楽しめるかどうか」を基準に、くらしにしごと、
いろんなことに取り組んでみたいと思います。

* 謹賀新年 *

あけましておめでとうございます。

昨年もいろんな方にお世話になって、
さりげない気遣いやたくさんのご縁に感謝することしきりでした。。

この場をお借りして、ありがとうございます。


今年は、オープンにすなおな気持ちで、
ゆっくりと自分をあきらめずにじ~っくりと
亀のように、牛歩のように、猫の忍び足のように進めたらと思います。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。