2015年1月29日木曜日

今やっていること

この一年ほど、自分の苦手として、手を出せないできたこと、逃げてきたことと向き合っている。

その方法とセンスを、先生に教わりながら。


たぶん、方法を知っていても、センスがないと使えない。

言い方を変えれば、機能しないか、効かせられない、ということ。


センスを学ぶことが大切なのと同時に、誰に学ぶかも大切だ。

なぜなら、そのひのセンスを学ぶ=真似ぶ(真似る)ことだから。


一年前は、今の状態は想像できなかった。

一年後は、さらにどうなっているだろう。


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意識をどこに置くか

なんども忘れては、繰り返し気がついて、練習していること。

「意識をどこに置くか。」


つい、今までに慣れた「楽」なところに意識を置きがち。

それが、いわゆる無意識ってやつなのだけど。


望むところに自分を置いてあげられてないと感じるとき、自分の望むところに意識を置いていない、向けていない、ということ。



すぐに忘れちゃうけど、大切なこと。

なんどでも思い出そう。


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2015年1月28日水曜日

学ぶって

ふと、学ぶってどういうことだ?と思ってみた。

そしたら、自分になかった新しいセンスを身につけること、と出てきた。


今までは、たぶん、学ぶ=新しいことを知ること、だったのだけど、この理解、成長した。(と思う。)


それでもって、わからないっていうのは、それを理解するセンスがまだない状態、ってわかった。



ここで言うセンスって、感覚だけではなく、知識も含めてで、その二つが合わさってはじめて知恵になっていく、というのかな。

たぶん、知恵にはセンスも含まれるし、センスにも知恵は含まれるけど、イコールではない。



はぁ、なるほど。。

これからますます、センスを身につけたり、磨いたりしていこう。



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すべてはゆるすことから

今日、ふと浮かんできたことば。

「自分をゆるすことができれば、すべて解決する。すべては、自分をゆるすためにある。」


浮かんできたとき、なんだそっか、と思った。

腑に落ちるってこういうことかと、小さな嬉しさ。


その反面、こうして書くと、そんなのうそだよー、っていう自分もある。

たぶん、それは頭でっかちの自分。


なんでも肌で感じて判断する感覚派の自分は、そりゃそーだろ、ってなってる。

また両極の自分を知る。



こうやって、行ったり来たりしながら、検証して学んでいくのだろう。

たぶん、学ぶって、違うものを味わうことで起こる脳の反応。


脳みそ本体は、ほんとは裸んぼで、肌合いで感じる感覚派で、頭でっかちじゃないのに、きっと恐れとか不安とかが、頭でっかちをつくるんだろうな。

おそらく、その辺が、大脳新皮質と間脳とかそういうところの違いでもあるんだろうな。



それならやっぱり、不安や恐れを超えて、裸んぼの脳で感じてみよう。

ゆるすとか、ゆるさないとか、そういうのも、そのあたりにあるような気がするし。


今までとちがう脳の使い方、もしかしたらできるかも。

新しい刺激を受けると、脳が新鮮になった気がするのも、そういうことなんだろうな。


うーん、やっぱり、身体と感覚、脳と神経、意識のつながりって、おもしろい。

観察してみよう。


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この頃思う工夫

あんまり調子が良くないとき、以前なら、感じていることを掘り下げていくのみだった。


最近は、まず栄養状態を疑って、最近の食生活と日常生活を検証してみている。

それからホルモンバランスの状態を省みて、納得することが多くなってきた。


タンパク質の不足、ミネラルバランスの崩れ、体調、最近した行動、この辺をよく見てみると、崩れるパターンがだんだん自覚できてきたり、バランスを取り戻すには、その反対をしてみたり、進むペースをゆっくりにしたり、待ってみたり、工夫の実験。


それで様子を見ながら、必要なフォローをすればいい。

思考、意識のことを扱うのは、まず身体のバランスを整えてからでも遅くないのかもしれない。

この頃は、そんな風に思うこともある。



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今あるところから

ただ、今あるところから始めてみる。

それが、いかにできずに、ここまで来てしまったことか。


なぜできなかったかといえば、その先から始めようとしていたから。

じゃあ、どうしたらできるかといえば、今ここでそうある現状をゆるして、そこに自分の丸ごとを置くことから始まる。


そこに自分を置くの、こわかったんだよね。

ただそれだけのこと。


こわいの向こうにあるもの、少しだけ、えいやっと手を伸ばしてみる練習。

毎日がその積み重ね。



感じるのがこわかったこと、味わうのが嫌だったこと、少しずつ乗り越えて、その先の世界を覗いてみたいから、今あるところに身を置くことをゆるすことからはじめてみる。

いつでもそこから、なんどでもなんどでも。



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2015年1月3日土曜日

新年のごあいさつを申しあげます

新しい一年のはじまり、おめでとうございます。



だれかの書き込みで

「なぜ、新年の挨拶は、あけましておめでとうなのか?」という疑問が書かれていて

「あけまして、おめでとう。って言う気持ちになれない」とあったのが、

わたしにヒントを与えてくれました。



実はわたしもまったく同様に感じていたところがあって

なんで「おめでとう」なのかな?

とハテナを持ってしばらく過ごしていました。



それで、ふと気がついたのですが

「年が明けました」という結果があってからの「おめでとう」なのではなくて、


「新しい年」を「おめでとう」で始めることで、そのエネルギーをチャージする


っていうことなのか、と。。。

(39年生きてきて、初めて身を持って気がついた~~~!!!)




これと同じことがたぶん、お誕生日や誕生にまつわる儀式にも言えること

なのだということにも気がついて

例えばイエス・キリストの生まれた日に三賢人が贈り物を持ってやってくるとか

お食い初めや一升餅背負う儀式とか、

多くはみんな、お祝いであり、願いや祈りを込めたもの

ということを想い出して、なるほど~と。。



わたしはクリスチャンではないけれど、キリスト教系の学校で育ったので

そういう物語を6年間繰り返し学んできて知っているわけなのですが

イエス様の言って行っていたと書かれていたことも、たしかにほぼ



結果の前に「起こることを決める」ことで、その結果(いわゆる奇跡)を起こしていた



ということだったと思い出しました。





それって、アレクサンダーが言って/行っていた


発見→観察→分析→選択→決断→実験


というプロセスと同じではないか!という発見。






教師養成トレーニング生時代にも、これに気がついて

へぇぇぇぇ!面白い!ってなってたのだけど、改めて思い出して、なるほど~!となる。




それでもって、なぜ奇跡なのか?と疑問を持つと、それって



奇跡=本人や周りが起こるとは信じていない結果



っていうことになる。



(裏を返せば、奇跡が起こせるっていうのは、

 それは意識にのぼらないほど当たり前になっている

 つまり、否定や疑問の入る余地がない、ということ。)




それで、はじめの「なぜ新年は、あけましておめでとう、なのか?」

という疑問に戻ると、

新しい年を漫然と始めて、そこそこの年にするのではなくて



新しい年をおめでたい年にします!という選択を「意識的にする=決断する」



ということなのか!と。



ふああ!びっくり!!すごいな、先人の賢人たちの智恵!!




というわけで、新しい年をおめでとう!で安心して始められそうです。(やったー!!)


皆さまにとっても、今年がおめでとう!な日々でいっぱいになりますように!!



新年あけましておめでとうございます☆



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