2010年4月13日火曜日

東京についています





昨日から東京に滞在しています。
八ヶ月ぶりの東京、あいかわらずひとがいっぱい。

そして、お互いに無関心。
それがいいところであり、わるいところでもあり。

なのだけど、必要なご縁はつながる。
おもしろい場だなぁと思う。



今日、気がついたことは

何にYESを言うのか
そして、何にNOを言うのか

ということが
今を生み出していくという事実。


さぁ、わたしはこれから何にYESを言うのか。
そのこたえは心に聴こう。





2010年4月7日水曜日

コラム書きました





アレクサンダー・テクニークをもとに解説する
日本舞踊とバレエとの基本姿勢について
コラムを書いてみました。
http://sutudiosaltia-column.blogspot.com/2010/04/blog-post.html






2010年4月2日金曜日

とどのつまりは





結局のところ
わたしは自分以外のものにはなれないし
なる必要もないのだ。

ということがわかってきて、ほっとしている。


何か外側に正しそうなものや良いとされてるものがあると
自分の基準もそれに合わせなくては!と思っていた。
それも、ものすごい無意識のうちに。

でも、それすら必要はない
自分が意識的に望まない限りは。



今起こっていることをただそのまま起こらせること。

それってなかなかできないことだったりする。
もっと何かすべきだとコントロールしたがったり
何か余計なことをしたがるくせがある。



そういう自分の習慣的な無意識の反応に気づくことが
アレクサンダー・テクニークなのだけど
体の姿勢とか構造のことばかりにとらわれると
とたんに窮屈なものになっていく。



わたしがこのところしばらく
アレクサンダー・テクニークを教えることに
どうしても興味が持てなくなってたのは
そういう部分に関してだったんだなって気がついた。


今のわたしは自分を正しく使うことには興味がない。
特に、理論とか解剖学とかの知識に縛られるようなこと。


わたしは人間の心理・思考・身体それぞれの相互関係と
その反射のメカニズムに興味があって
それを体感することで理解を深めている。

だから、わたしは、知識を学びたい人にはまったく役に立たない。
体験したい人には、混乱というプロセスを通して教えることができる。
混乱なくしては本当の学習は起こらない。

学習は、知識として頭で理解したことが
体験として体に落ちていって
それが日々の行動に染み渡ることなのだと思う。

大切なことは、体験として体に落ちていく時点で
頭に上ってくる理解が起こることはなくて
体感を伴って体で理解できたときに
それが何だったのかを脳で理解できるようになるということ。

このプロセスには、その人に必要な時間を経て
何度でも起こってくることでもある。

そういう時間差を理解できなくて
インスタントに、即時に理解ができないといけない!!
と思っているがゆえに「待てない」ということが
自分の学習の機会を妨げてしまったり
自分のうちにジレンマという苦しみを生み出す原因になっている。


思うに、学習のプロセスが流れにのっているときは
たいていの場合、遊びや冒険の要素が含まれている。
言い換えてみれば、それは新しい可能性が生まれるだけの
ゆとりや余地の居場所が与えられているということでもある。

学習するということを考えるとき
わたしたちは必要以上に真面目すぎてしまうのかもしれない。
本当はもっと自由を自分にゆるしてもいいのかもしれない。

それは、自分へのコントロールへの手綱をゆるめる
と言い換えてもいいだろう。



わたしがアレクサンダー・テクニーク単独では教える気が起きなくて
演劇とかアートの要素と合わせたときに興味が湧いてくるのは
そういう自由の要素が創造する場にはあるからなのだろう。

そういえば、ワシントン州立大教授で
演劇+アレクサンダーを教えてるキャシーも
同じことを言っていたその心情を
今だから本当によく理解できる。

やっぱりわたしは演劇・アートの世界からは離れられないのだ
ということを改めて知らされる瞬間。
骨の髄まで、わたしはそういう創造の場を必要としている。

実験の場=失敗する自由も許されているということ。

そういう場が、わたしにはとても必要で
わたしが“普通”の社会で生きづらさを感じるのは
その感覚があまりにも許されていない雰囲気を感じるからなのだろう。



思えば、わたしの30歳までのほとんどの時期と情熱は
演劇や身体表現などのアートに注ぎ込まれていた。

あまりにも愛しすぎて、その情熱を使い果たして
今は遠巻きにしているスタンスかもしれないけれど
それでもやっぱり愛していることに今更ながらに気がつく。

結局のところ、わたしはそこから逃れられないのだ。
というより正確には
その中にどっぷりと浸かってしまいたかったのだ。

愛して愛して愛しすぎてあまりにもそれが当たり前で
愛しすぎるがゆえに憎んで嫌ってみたりもしてみて
そんなことに気づく間すらなかった。


わたしはアレクサンダー・テクニークを愛しているのではなく
演劇というアートを通して人間を理解したかったんだな。
だから、演劇というツールを選んだんだなと
今更だけど、ようやく心底よーくわかった。


やっぱりわたしはアレクサンダー+演劇なのだ。
それ以外には、どうあがいてみても選択しようがない。

それが、わたしの生きていく証なのだ。
全ては人間を理解し、人間の生み出す物語を理解するために。



今まですべての体験は
そのことを本当に理解するためにあったようだ。
これからやっと新しい第二章が始まる。

なぜだか、そんな気がする。
大げさかも知れないけれど。





わたしたち全員 = 演技者





今、この本を読んでいます。
NEED 本当のあなたをさがす旅




信頼を寄せる友人であり
メンターでもある茅原田久仁子さん
この本のことを教えてくれたのですが
確かに面白い!

この本の作者スーザン・バトソンは
ニコール・キッドマンらオスカー俳優の演技コーチをしている女性。

演技者が自分の被っている仮面という蓋を外し
素の自分というエネルギー100%で演技をしたとき
初めて人の心を揺さぶることができる。

という考えをもとに、相手の仮面を外し
素の自分に出会っていくプロセスをサポートしながら
演じる表現へ持っているものを方向付けする
という演技コーチングをしている。

この本ではその内容やプロセスについて書かれていて
それが、アレクサンダーで自分に気づいていくプロセスや
自己探求の色々な方法で起こっていることとまったく同じで
それがシンプルに書かれていて、とても興味深いのです。

スーザンが指導しているのは
役のキャラクターの欲求(NEED)、仮面、
それらから生まれてくる習慣的な思考&行動パターンを分析し
自分自身を役とどう融合させていくか
というプロセス。

これは、彼女も書いている通り
円滑に生き抜くために上辺を工夫している
わたしたちすべての生きている人に共通すること。

本当に深い交流が起こるには
上辺に被っている仮面という蓋を外して
自分の持っているエネルギーをそのまま放出することが肝心。

とくに、人への働きかけをしていく人には
本当に必要なことだと感じて
自分ははたしてどうだろう?と思った。

まだ本の最後に書かれているエクササイズをしている途中だけれど
これは本当に読み方によって深くなっていく本だなぁと思います。

今年後期の演劇学科での授業の課題図書に使おうと思ってます。

必要なひとには、きっとすごく響くはず。
性格俳優といわれる人たちがどんなことをしているか
そのプロセスがより理解しやすくなった気がします。

うーむ、面白いからもっと色々調べてみよう。
人間って、無限だなぁ。





複雑なメカニズム





このところ、ちょっと気をつければ済んだのに

どうしようもなく救いようのない間違い
(と自分が思っている体験)や

どうしようもないそそっかしい失敗
(と自分がおそれている体験)を

繰り返してはものすごく落ち込んで
打ちひしがれるorzという体験がつづいてました。


それで、本当に今朝までものすごい凹んでいてorz
これからわたしはどうやって生きてったらいいんだろうか
と思うほど、自分を救いようのない奴だと責めて
どうやって贖罪しようかと思って落ち込んで
あまりにもどうしたらいいかわからなくなってしまった。

それで、悩むのをやめてふて寝をして
起きてまた何も考えずに運動をしてました。

運動しながら、アタマがからっぽになっていって
そのあとにただ日常のいろいろなことをやっている間
ぽかんと自分と対話していました。


失敗だと思うことに対して
失敗を隠そうとか、立ち直れなくなるほど責めてしまうとか
そういう反応をどうしてもしてしまうのはなぜだろう?

その体験という事実に対して
建設的にただ行動することもできるのに
なんでそんな自分にとってつらい反応の仕方しか
わたしはできないんだろう?

あ~、そうかー
これって、そんな自分でも
まずは責めずに愛してあげる練習なのか。

そっか、責めるのもひとつの反応だもんね。。




と思ったら、はっ!!と気がつきました。




あ!これが自分の今までやってきたパターンなのだ!
と。



わたしが今までやってきた習慣的な反応は

自分が失敗だと思うこと
(自分以外から見て非があると思われるだろうこと)に対して
自分の取った行動の軌道修正をして
ベストな選択肢にしていくのではなく

ものすごく恥ずかしいことだとみなす思考と感情が
自分を色んな物事から遠ざける行動
たとえば、失敗した事実を認めたくなくて
なかったことにしようとか

自分の取った行動を
「おまえが悪い!
 おまえのやったことは取り返しのつかないほど
 どうしようもない悪いことなのだ!
 だからおまえには罰をあたえるのだ!」
と言って自分を責めて責めてしまうとか

そんな破滅的なことをしていたんだー。。。
がびーん!と気がついてしまいました。
唖然。




そんなことに気がついてきたら
あれ?それって、何かに似ているぞ?と思って
気がついた。


政治家とか企業とか
不正事件として取り上げられていることと
それに対する当事者の反応や
それを受け取る世間の反応とか

親から子への虐待だったり
親子や夫婦の間での家庭内暴力だったり

そういうことにも通じてない??
と、思った。
わぁ、それすごい。。。



つまり、それって自分の内側で

自分に対して無視しつづけるよう巧妙な隠蔽工作とか
不正を暴いたら容赦なく叩いて制裁を与えるとか

自分に対してしつけと称した
内的暴行や虐待をしているとか

そういう状態だったんだ。。


ということに気がつきました。
ぅわー。。。。
そんなややこしいことが
自分のうちで行われていたとは!!



はぁー、でも、これで納得。。
だから、失敗や間違いだと思うことから
建設的な方向へ導くことができなくて
落ち込む方向にばかり行っていたのだなぁ。

これは、日本人のメンタリティとしての
「腹切り」とか「指詰め」みたいなこととかと通じるのかも。
自分を傷めて贖罪を乞うような。

思い返せば、わたしの家系的な思考の在り方とか
反応の仕方とかにもそれは多分に含まれていて
失敗とか間違いに対して無意識に過剰反応してしまって
自分や相手や状況を必要以上に責めたりしてしまって
結局みんな苦しくなっちゃう!!
ということってそういうメカニズムで起こってたんだなぁ。

うーむ、これは、わたしの内側や家系だけでじゃなくて
失敗経験に過剰反応してしまう人全員に起こってるパターンなのかも。

だとすれば、これはとても興味深い発見。


虐待する親になってしまう人の内側にも
バッシングしてしまう集団となる人それぞれの内側にも
必死に事実を隠してしまおうとする人の内側にも
そういうメカニズムがあるとして考えると
ものすごく理解ができる、というより共感だ。
だって、ものすごい苦しい。
そのエネルギーの行き場がないもの。

うーむ、これはすごいことだなぁ。
その人にとって刺激となるものに対する反応の仕方が
その人のうちにあるエネルギーの行き場を決めている。

ひゃー、体感がすごい自分の中心にあって
芯からぶるぶる震えがきて止まらない。
これって、ものすごい核心の真実を確信したサインかな。


そう考えると人間ってすごい。

ものすごい自分を複雑にしながら
許しという名の愛を乞いながら
罰という名の不毛の愛を貫こうとする。
ひゃー、こんがらがってる!!

本当は許されて、愛されて
あなたはそのままでOKですよって認められたい。

だけど、それをするには自分は取るに足らない。

取るに足らないから、それを隠して
愛して許され認められようと虚を生み出す。

本当はそれは空しいことだと知っているのに
それをしないと、許され愛され認められないと思ってる。

だから、苦しいし、苦しんでしまうんだな。



うーん、すごい。
人間ってすごい。

その複雑さに使ってこんがらがってるエネルギーを
シンプルに使えたら、どれだけ建設的なんだろう。

うーん、超アレクサンダー・テクニーク的思考だ。

さらに、昨日読んでたNEED 本当のあなたをさがす旅
にばっちりはまる。



おもしろい。
おもしろすぎる。。。


これは観察の余地ありです。