2010年10月21日木曜日

内的感覚から出てくることば

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、内的感覚の変容が大きくて
理解を超えた理解に言語化が追いついていない毎日です。

理解を超えた理解って、どういうことなのか、というと
わたしにとっては意識の範囲の広がりのその先のずっと先が
あるとはなしに知覚できるという感覚。

そこにあるのね、とわかっているけれど
その中身にはまだ到達できていない、味わっている最中のもの。
そこに猫がいるのわわかってるけど、まだ姿は見たことがなくて
だから、「どんな猫?」ってきかれても説明ができないような感じ。
といったらわかりやすいでしょうか。
(もっとわかりにくい?)



内的感覚ってなに?という説明をするならば
そのひとそれぞれが体験して味わって感じた感覚のこと、といえるでしょうか。

たとえば、同じ場面で同じ食べ物を食べても
それぞれの体調や過去の経験からの記憶、立場、状況、感情、天気、光の加減など
さまざまな要素によって受け取る感覚が違うはずです。

そのベースとなるのが、それぞれ固有の内的感覚なのだと思います。


たとえば、一卵性双生児が生き別れてまったく別の環境で育ったら
同じ身体の情報を持っていても、体験から養われた内的感覚は全く違うので
きっと物事を味わうセンスや考え方も全く違うのだと思います。

生命や人間としての尊厳の危険を感じる環境で育てば
基本的生命活動にかかわる安心や安全という内的感覚は緊張状態にあって
いつでも気を張って身体も強張った状態だから、こわがりかもしれません。

生命や人間としての尊厳が尊重される環境で育まれたなら
安心や安全だけではなく、信頼や慈愛が内的感覚の基礎となっているので
身体も心もやわらかで、自由でクリエイティブな向こう見ずかもしれません。

そして、それらの内的感覚は、それぞれにとって当たり前のもので
日常をすごす意識の基本システムとして組み込まれているので
意識されることはまったくないので、だれも気がつかないところなのです。


わたしが体験したことは、まさにこの二つの感覚のちがい。
内的感覚で危機を感じている日常的緊張状態から
安心と安全や信頼と慈愛が満ちている状態へのシフトでした。

こればかりは、自分が気がつくことでしか変化できないこと。

今自分がどこにいるのかという情報は、体験からしか気づくことができない。
しかも、リアルタイムではなくて、少し過去に自分がどうだったか
ということを周りの人との関係性を通して示されて
それが自分に何を示唆しているのか見つめることでしか気づけない。

そのことに自分で気づけるようになるにはキッカケが必要で
そのために、たくさんの先生や師となる人と出会って、話して、体験して
それで少し成長した状態に引っ張りあげてもらって初めて気づけること。

最中に居るときは自分に気づけないでどっぷり体験することや
そこから成長する頃は、そんな少し前の自分を嫌悪してゆるせなかったり
そういうところを経ながら、それぞれの自分から学ぶことを学んで
その宿題が無事に済むと、感謝と安堵が内側から湧き上がってきて
ささやかで大きな贈りものを受け取って、祝卒業。。

複合的に、多層的に、同時多発的に
色んなリンクやシンクロが起きながら
そういうプロセスを経ていくと
ひとはいくつになっても変わることができて
自分のなりたいものにいつでもなれるのだ
ということが、うっすら曙のようにわかり始めています。

習慣的思考(過去の記憶)は、いまだに疑いたがっているけど
「まぁまぁまぁ」「そうだね、それももっともだね」となだめつつ
せかさず、今居るところの居心地いい場所から始めることにします。


あぁ、また抽象的なはなしになってしまった。
具体的なはなしができるようになるのはいつのことか。
それはそれで置いておいて、今のわたしで進んでみよう。

今日も読んでくださってありがとう。
爽やかな秋をお過ごしくださいね!


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