2015年5月1日金曜日

愛とお金と境界線と


昨日、風邪でぼわーっとしてたら、ぼんやりと、境界線と、愛と、お金について、気がついてハッとしたことがあった。

今、いろんな女性のリーダー(と言っていいかしらと思う)の人たちが、愛とかお金とか子宮のこととかについてコラムを書いてくれていて、ずっとそれを楽しみに読んでいたのだけど、その中で、子宮に感情が溜まることや、お金の循環は子宮の活性化と関係あるとか読んで、どういうことかな?とわかりたいと思っていたら。。

この数日、小さいひとの新生活が始まり疲れてきていたのを知らんふりしてたら、こどもの風邪が自分にもうつって、ばっちりやさぐれ意識に傾いて「デモ・ダッテちゃん」と「ドウセ・デキナイモンちゃん」が出てきて、なかなか手を焼いてくたびれてたところでした。

ばったりお昼寝で倒れてみたり、ぐずって我儘放題な小さいひとに負けつつ過ごしてみて、自分の捉え方のネガティヴなパターンに気がついて、ハッとしたら、するするする〜っと何かが解けて笑ってしまった。

「デモ・ダッテちゃん」になってたときは、与えられているもの、今ここにあるものに、とことん不満を感じて、駄目出しばっかりしてたなぁ、と。。

「ドウセ・デキナイモンちゃん」になってたときは、となりの芝が青く見えるから、どんどん外へ外へ出かけて行っちゃって、自分がお留守になっちゃってたなぁ、と。

それで、気がついたら自分に戻っていて、夫や両親や友だちや色んな人、いいかえれば大もとの神さまみたいなところまで、今まで自分が八つ当りしてたことに気がついて、また笑って。

もっと自分を見てー!
もっと私をわかってー!
もっとあれしてー!
もっとこれしてー!
まだまだ足りないのー!
もっともっとちょうだーい!!

って言いながら、なんでやってくれないの!って怒ってたなぁって。

ほんとは、欲しいもの全部すばらしく与えてもらってて、でも、それが自分の思ったような「かたち」や「タイミング」ではなかった!!って怒って、もらってないことにしてたなぁと。。

プレゼントに花やアクセサリーが欲しいの、わたし女性だから!!

って、ぎらぎらリクエストしたら、花いっぱいの庭付き一戸建てまるまるどーん!ってもらって、これ花束じゃないじゃない!アクセサリーじゃないじゃない!ロマンチックじゃないじゃなーい!!ないないない!!って怒ってる、というコメディ。。

愛されてない!
お金がない!
ロマンチックじゃあない!!
全然ステキじゃあない!!

そう思うのも、誤解で、ほんとはもうそこにあるのに、怒ってるから見えなくて、怒っちゃってるから意地悪されてるみたいに思っちゃう。
だから余計に、神さまも、周りのひとも、差し出しづらくなっちゃうし、深いところで気づいてる自分がいる分だけ罪悪感が募って、それを隠す(知らんふりする)ためにまた怒ったり、拗ねたりしてみる悪循環スパイラルで、さらに「ないない星」にワープしてしまって、「あるある」星から遠ざかってしまう。

先日、鈴木重子さんがFacebookで、『誰かを「敵」だと思ってしまうのは、私たちの神経システムが適切に働いていないとき。』という気づきをシェアされていて、ほんとにもう、まさにそれ!だったのですね。

自分が本来の状態で働けない=自分への信頼が充分ではない

なので、自分には足りないモードになっちゃう。
(ほんとは、愛やお金じゃなくて、脳や身体に栄養や手当てが足りなかったりするのだけど、その話はまた後日に。。)

足りないモードになっちゃうと、自分の境界線を越えて、外に探しに行っちゃうから、境界線が曖昧になっちゃう。
ということに、書いてて気がつく。
(感覚的気づきは、言語化すると脳に情報として落ち着けるようで。。)

だから、依存してしまう、自立/自律できてない、というのは、そこなのかも。

まず、「足りない」「欲しい」から出発して、出かけて行っちゃうのか。
それとも、「ここにある」「よかったね、ホッ」から始まって、落ち着きどころを見つけたことから温めていくのか。

豊かさや可能性が、たとえば卵だとして考えてみると、どっちがより気持ちよくヒヨコになれる確率が高いか、わかりやすい。
(と、ここで自分の妊娠出産体験がリンクして、また書きたいネタが増えたので、これもまた後日。。)

で、やっとここではじめに戻って、境界線と、愛と、お金につながってくる。

愛とお金と境界線は、鶏ヒヨコでつながっていて、そこの循環をひっくり返すには、信頼することに安心/安堵する体感が重要ということ。

そして、その「信頼することに安心/安堵する体感」への切符が、感謝であったり、我にかえる、気がつく、ということなのかも、ということ。

が、どーん!わかったー!ほえー!そうですか!と一瞬にやってきたので、言語化してみたら長くなっちゃった、というお話でありました。

今日は、シャーマニズムとパフォーマンスのことを考えてた


台所しごとをしながら、ふと、シャーマニズムと演ずること(踊ること、奏でること含む)についてあれこれ浮かんだこと、書き連ねてみようか。。

大学時代、演劇史の授業でだったか、「依り代としての身体」という言葉が出てきて、それが確か白拍子の話の時代のことだったから、安倍晴明なんかも活躍していた平安時代あたりの話だったと思う。

たぶん、踊ることや演ずること、奏でることは、なぜか世界共通で、神さまへの捧げものであったり、儀式として、あの世とこの世の橋渡しをする役目があったのだけど、演じ手(パフォーマー)は自分の存在をからっぽにして、そこに神さまだったりそれに近いものを自分の存在におろして、それに身を委ねて表現をする、ということで、聖と俗をつないでいた。

パフォーマンスだけに限らず、表現活動すべて、アートやスポーツでも、自分を超えた何かに動かされているフロー体験というものがある。

それが現象として現れることのできる「依り代としての身体」があるとき、自分のすべてを明け渡して、奇跡のような感覚や体験を享受したり、提供することが可能になる。

気功治療やエネルギーワーク、以前参加した「みくさのみたから」でも、アートと治癒とシャーマニズムは同じところにあるものとして教えてもらったけれど、まさに内在する動きを表現する舞踏なんかもそうだし、そうではなく、型が決まっていたり、決まりごとや振り付けのあるものですら、繰り返し稽古するうちにそれらが体感の中に没入して一体化するうちに、究極的な俯瞰と同時に「それ」が起こる。

「それ」に至りたくて、あれこれしてみたりする人もいれば、もともとそういう素質が多分にあって無自覚な場合、自分を扱いづらいように感じてしまっている人も中にはいるのだと思う。

私自身が後者の傾向がある人間なので、日々模索の最中なのだけど、共感能力として自覚できれば、もっとらくに生きられる可能性は大きく拡がる。

さっき、ふと目にしたスピラボのサイト の「エンパス(共感能力者)の人が共感能力をどうしたらオフにできるか」という項目を読んでいたら、自分な好きなものを思い出す、というエクササイズが紹介されていた。

以前、シアトル大学で俳優むけの授業をしているアレクサンダーテクニークの教授のキャシー・マデンさんに、私が「役と自分が同一化してしまって、自分がわからなくなってしまったらどうしたらいいの?」と質問したときの答えとまったく同じで合点した。

役に共感しすぎることも、他者(自分以外のすべて)に共感しすぎることも同じで、自分を明け渡してしまうことだから、その役目が終わったら、自分に戻ることが自分という生命にとって大切なことなのだ。

自分の素の感覚、愛してやまないもの、心地よいもの、そういったものを思い出すこと、そういったものに触れることが、自分を取り戻すことで、だから、病気になった人たちが自分の好きなことややりたかったことをがんがんやりきったら自分の生命力を取り戻していた、ということが起こるのだなと納得した。

舞台や人前に立つパフォーマーだけでなく、自分の生命を生きる上で、他者を生きてしまうことから卒業していくことが大切なわけも、きっとそこにあるのだなと思う。

だからこそ、自分の好きなものを自分がすることに許可を出そうと思った。

というお話でありました。