いや~、そういうことだとは気づいてなかった。
皮がむけるみたいに、つるりと気がついた。
結果って、先に気にしてどうこうしようとする対象じゃなかったんだね。
いや、知ってはいたけど、ほんとには理解できていなかったよ。
今までずーーーーーっと、結果を気にしてやってきたんだなって。
どう思われるかっていうのもそうだし、どうなるかっていうのもそう。
そんなのさ、わからないのに。
ただ、今の自分がどう歩んでいきたいか、どう在りたいか
それがまず先にどーんとあってもいいのでした。
その上で、どう関わったらどんな風に自分が役立てるのか。
喜んでベストを尽くしてもおつりがきちゃうくらいの気取らない心がまえで
ただ、今できることをしてみることを積み重ねるだけ。
それだけでよかったんでした。
とってもシンプル。
シンプルだけど、奥が深い。
そういうふうに居ると、結果なんてどうでもよくなる。
正確に言えば、結果はわたしのしあわせを脅かすものではなくなる。
結果は結果でしかなくて
それは、自分のしあわせとは直接の関係がないのだ。
ただ、自分が結果に依存しているとき、結果に一喜一憂しちゃうんだな。
結果は、自分がしたことの後についてくるもの。
だったら、自分の満足がいくように、納得できるようにやったら
結果はどうであれ、自分はもうすでに満たされているから
やってきた結果をすなおに受けとめられる。
ってことは、それまでわたしがどれだけ
自分の満足のいくように、納得のいくようにベストをつくしてなかったか
ってことになる。
そもそも、ベストを尽くすことそのものが、自分の喜びであればいい。
そういう風にベストを尽くすことが、最善っていうんだな、きっと。
自分に疑いを差し挟むんじゃなくて
ただ、自分のしていることに関心を向けながら励ましつづけること
そうして、今の自分にできることを充分にやったら
それだけでもう気持ちがいい。
それは相手や事象に対してのまなざしでも、きっと同じこと。
どうせやるなら、気持ちがいい方がいいもんね。
その、「快」の感覚ってものすごく重要なものなんだと思う。
次のアクションを起こすためのモチベーション
つまりは、エネルギー源になってくれるものだから。
それが枯渇しちゃうように、もったいぶって嫌々やるから
どんどん自分が小さく消えていっちゃうんだな。
燃え尽きてしまうほどの激しさとか厳しさじゃなくて
自分が「快」な加減での最大限を楽しんでいかれたら
自分もまわりも、みんながハッピーになっていかれる気がする。
それってすごく健康的なことだ。
循環させるって、きっとそういうこと。
そんな風に思う今。
なんか最高にしあわせだな。
気がつけるって、ほんとおくりものだ。
なんだかクリスマスみたい。
そういう大人になるって、たのしいな。
そういうおめでたい大人でいこう。