2010年7月14日水曜日

依存から解放へ

この数年、依存と自立ってどういうことだろう
ってずっと考えてきました。

考えてきたというよりは
疑問を持ち続けてきたの方が近いかな。


少し前、ヨガを教え始めた友だちから
自立について大きな気づきがあったことをシェアしてもらって
それを聞いて、とってもいい刺激とショックを受けたことがありました。

わたしは一体どうなんだろう?と
改めて依存と自立についての自問自答フォーカスが始まりました。



それで浮かんできたのが

期待どおりに与えられることを当然と思って
ありがたみも感謝も心で感じられなくなってることが
依存している状態のあらわれなのかもしれない

という考え。

これには、ほんとにハッとしてしまった。


当たり前で気づきもしない
今現在の自分を取り巻く環境のよいところ
すっかり忘れて不満や問題ばかりを見ていた。



例えば

国や地域レベルでの治安面での安全が確保されていて
戦争やテロ、クーデターや恐怖政治がない、とか

空気や水などの衛生面での安心が確保されていて
蛇口をひねれば水もお湯も出て、飲んでも最小限健康を害さないし
排泄物も流されるトイレがあって、街中でそのニオイがすることもないし
ガスマスクしないでも歩き回れる、とか

食が満たされていて、飢饉にあえぐことはない、とか

帰って住む家があり、雨風をしのいで暮らすことができる、とか


そういうこと、すっかり忘れて感謝すらしてなかった。
でも、よく考えたらそれってすごく恵まれていること。




もちろん、恵まれた中であっても
さらにどうやってより良くしていかれるか考えることは大切。

だけど、文句を言って感謝すらしないのとは、それはまったく別問題。



そう考えると、普段接していたり、当たり前と思っている相手や人間関係でも
同じように相手が差し出してくれている良いものを受け取らずに
自分が欲しいものを与えてくれない!と文句ばっかり言ってきたことを反省。

与えてくれなかったのは、相手だとばっかり思っていたけれど
受け取れていなかったのがわたしの方だったんだなとわかったら
過去の自分の未熟さとしてきたことを、心の中で反芻して
すなおにその時の相手にごめんなさいと謝れたら、なんだかすっきりしました。

受け取れなかった自分を許すまでに
今までものすごい時間と朗直をかけて責めてばかりいたけれど
責める代わりに、ゆるして調和することにシフトしたら
まえよりもずっと、その相手にも自分にも気持ちが優しく居られて
今ここに存在することが易しくなってきたのでした。



そうして、改めて自立と依存ってなんだろうって思ってみたら
また違う言葉が浮かんできて

依存は、自分の行動や考えの動機の由来が自分以外にあることで
自立は、自分の行動や考えの動機が自分の内側から湧いてくるもの

だと思ったら、ものすごくすっとして納得。


今まで夫とよく言い合いになってしまっていた原因で
彼がわたしに何度も指摘してくれていたのがまさに
「人に言われたからそうするんじゃなくて、自分で考えて行動して!」
ということでした。

自分の中で自分の考えと思っていたことが
実は、周りの人に言われて知らず知らず身につけてきた考えで
すっかり自分に馴染んで自分の常識になっていたもので
それが自分が本当に思っていることと違っていたときに

「言ってることと、やってることが違うのはなぜ!?」

と、ツッコミを入れられるような「ぼろを出す」ことが現れてたんですね。
(今、これを書きながら、わたしも気がついた!)


これって、ものすごい大事なミソの部分だったんですね。
なぜなら、自分の人生を構成している行動や選択の核心部分だから。



わたしは幸か不幸か
社会に出てトレーニングをされる期間が最小限だったので
常識的にふるまうことがそんなに得意ではなくて

自分が頭で理解してる常識にしがみついて行動しようとして
心を無視して置き去りにしてしまえばしまうほど
体が熱を出したり、痛みや症状を出して動けなくなっちゃうんですね。

それって、自分の内側に行動の動機が全然ないから
まるで「おまえには、まだ体を使う許可は出せないな~」って
体に言われちゃってるよう。


でも、自分の内側に行動の動機が満ち満ちて
心が弾んで潤っているときは
常識がどうであれ、社会がどうであれ
ものすごく調子が良くなって動けてしまったりする。


だから、その分、自分のまわりの人がしているのと
自分がしていることの方向性が違うときって
無条件に罪悪感を感じたりしてたし
他人からの評価がもらえないとか
悪くなってるなって感じるとき落ち込んでた。

でも、それって、良い悪いの判断も
自分が幸せで快適に生きるかどうかの責任も
自分以外のものに決めさせて依存していたんだな
って気がついてびっくり。


会社の方針で、とか、親の厳しいしつけのせいで、とか
自分の所属するグループに自分を決めさせちゃう方に慣れているし
そっちの方がずっと楽な気がしてしまうのだけど
でも、それじゃあ本当の喜びや感覚って味わえないんじゃないかな?

そう思ってる自分に気がついてしまってから
依存して自分をまわりにまぎれこませて
長いものに巻かれて生きることが余計に居心地わるくなってしまった。

不器用きわまりないのだけれど
計算して気を使って器用に立ち居振舞おうとする在り方は
心に素直になりすぎた今の体の自分には
もう到底、長い時間続けてできないこと。

でも、まだ頭の中では
そういう器用さを自分に強いたがる自分が居るので
ゆっくりと調和していけたらなと思います。



もしも、これから自分が目指すのならば
お互いが尊重されている関係性の中で
心に従い、思ったらいつの間にか
相手への思いやりを自然に示してしまっていること
なのかもしれません。


なーんか、まとまりも何もなくなってしまったけれど
今大事だなぁと浮かび上がってることを書いてみました。

思うように、ここに書いたように
キレイには生きていかれないかもしれなくて
日常ややってくるもの中で溺れて言行不一致になるかもしれないけど
それでも、自分が感じていることやどこに行こうとしているか
何度失っても繰り返し思い直せれば
またちゃんと軌道修正していかれるのかなって思ってます。

そうやって、練習してまなびながら
ちょっとずつ進んでいかれますように。


長くなっちゃったけれど
最後まで読んでくださったあなたにもありがとう。