2010年12月16日木曜日

大分から

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


大分に帰ってきて、6日経ちました。
こんなに大分でゆっくりするのは11月の連休の時期ぶりです。


そして、今は少しほっとしたのか風邪を引いています。
風邪の引き始めは、いつも呼吸器にくるのですが今回も肺に。

肺は悲しみや失望を受けとめてくれる臓器だと聞くので
風邪と一緒に肺の中にたまった不要なものがきれいになるといいな
と思って、やさしく養生しています。


ほんとは今日は、別府の劇団「まぜくる」の稽古に参加する予定だったけど
大事を取ってお休みです、とっても残念。。

「まぜくる」は、老若男女、障害者の人も、外国の人も
垣根を超えて「まぜくる」になって表現してみようという集団。
http://jiritsu.junglekouen.com/c15729.html

実際に参加してみると
すべてのことにおいて垣根があるのは
自分の外ではなく内側なのだな
みんな何も変わらない同じ心の通った人間なんだなと
実感できて、すてきだなと感じます。


それから今週末の土曜日は、大分でワークショップです。
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=395

それまでに、風邪が抜けてくれますように、と祈りながら
体調を観察しながら、色々な養生の実験をしています。


来週はまた東京に出て、火曜日は大学で補講なので
風邪が、のんびり休養を自分に許可してくれたようで
なんだかとても面白いです。


無理しすぎずに、今必要なことだけおやりなさい。
そう体から語りかけられているようで
忙しさの中から、ふと我に帰る体験です。


みなさんも、どうぞ心身ともに温かく
元気に毎日を過ごせますように
大切になさってくださいね。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月6日月曜日

果樹ある生活を夢見る

行き詰ったり、落ち込んだときに
そのことばっかり考えてると余計に落ち込んじゃうから
現実逃避かもしれないけど、果樹ある生活のことを考えます。

庭があって、果樹があって、野菜やハーブも植えて
うじゃうじゃにして雑草とも共生しつつ土壌も豊かにして
コンポストも作って、虫や鳥とも共生しつつ
日々のお手入れや、四季の移り変わりを愛でる。。

広すぎたら手が回らないかもしれないけど
普通に家の庭だったら
広いくらいでちょうどいいのかもしれないし。

いちじくやベリー、柿や杏や梅がなったら
ジャムやドライフルーツやお菓子やパンを作ろう。

軒先を眺めながら、お茶をしておやつを食べたり
のんびりおしゃべりしたり、ぼーっとしたり。

雨の降る日も、晴れる日も木々が生きてるのを感じながら
一日一日を過ごせたら、なんだか元気になれそう。

想像だけでもしあわせになれる。
しあわせになれるなら
いくらでも想像をふくらませよう。

パンを焼いたり、パン用に酵母を起こしてみたり
酵母でケーキやお菓子も作ってみたり
みそや香辛料なんかの調味料もつくってみたり
ちょこっと楽しむための果実酒や
薬草茶をつくってみたり。

自然の恵みを存分に感謝とともにいただいて
いのちをつなぐために生かせたらいいな。

心身の養生も、喜びも自然のなかから。

そういうぜいたくをたくさん味わいたい。
手間ひまかける豊かな味わいをいっぱい楽しみたい。

都市にはない喜びを、たくましくなりながら身につけたら
きっと都市に出てきても揺るがなくて楽なのかもしれない。
それが、本来の人間の姿なのかもしれない。

テクノロジーや通信手段も上手に使って
自分の生活の基盤はアナログに保てたら
ずっと心地いいかもしれないな。

ちょっとほころびがあっても
工夫次第で味わいに変えられる
そんな生活を大いに楽しむような
大らかな暮らしを。

土と植物と動物と人間と
それぞれが心地よく居られる暮らしを。

想像するだけで元気になれる。
それが日常になることを夢見ながら
今の自分の手足を動かそう。



Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月4日土曜日

体験から学ぶことは、自分を癒すこと

どこかで自分を責めている自分がいる。
他者という目線が入ると、とたんにその自分が現れる。

いえいえ、わたしはそんな良いものではありません。
いえいえ、わたしはこんなダメなところばっかりなんです。
いえいえ、わたしは何にもできないんです。
いえいえ、わたしはとんでもなく無能なんです。


そうやって挙げ連ねればきりがないほど、
どれだけ自分を貶め、辱め、批判し、強要してきたことだろうか。

それが、過去の記憶に基づく信念体型から
始まってしまっている習慣的&自動的反応パターン。

だんだん、これをやってる最中に
自分でやってることを意識できるようになってきた分
あー、こんなに自分で自分に無能さを強要してたんだ
と気がついてびっくりします。


「今年の汚れ、今年のうちに」って
どこかの洗剤のキャッチコピーじゃないけれど
自分の習慣的パターンも、今そうやってクリーニング中で
新しい自分になる準備をしているんですね。


ほんとに、びっくりするくらい
自分のもう繰り返したくないパターンがデフォルメされて
日常で日々起こっている。

もうイヤー!!!ってならないと
そこから脱するシフトができないから
強烈に自分にショックを与えてくれてる。

もう、ほんと、笑っちゃうくらい。


こないだは、大分の家で
東京に来る前夜食べた水炊きの鍋の残りを出しっぱなしで
そのまま東京に来てしまって腐らせてしまって
当然、夫に電話でめちゃめちゃ怒られてしまった。

それで、あんまりにも自分が情けなくて
ホントだめだなぁとか、どれだけ自分を責めてるか
どれだけ自分を虐げて罰してるか
そんなことに深々と気づいてしまって
そのあまりのインパクトにたくさんの感情が一気に動いて
気がついたらこれでもかと涙が出てきて泣いてました。


リズ・ブルボーの「5つの傷」を読むとわかるのだけど
わたしには「侮辱」の傷があり、自分を侮辱し、相手を不快にさせるような体験を招き
夫には「不正」の傷があり、相手を責め、自分を責めるような体験を招き
そうやってお互いに自分の傷を浮かび上がらせて
それを癒す必要があるんですよと教えあい、学びあっている。


それもわかってきたら、ありがたくて、これまた泣けて
もう色んな思いと感情がごっちゃになって
泣けて泣けて仕方なくて
久々にポロポロ泣いてしまいました。


こういうのも、過去の記憶のクリーニングなんだなぁと
思えるようになってきたのもありがたいこと。。

ホ・オポノポノの考えとしてのクリーニングは
そういう面で、とても理に適っているなと感心しきり。

常に人には救いの道が用意されているのだけど
それを見つけられるよう、目をふさいでいるものをとりのぞく
それがどれだけ大切なことか実感します。


わたしはヒーラーでもなく、セラピストでもなく
(そう感じたり、思ってくださっている方もいらっしゃると思うし
 わたしもそうなりたいと思っていた時期もあるのですが)
アレクサンダー・テクニークを学んできた
ティーチャー(伝え教える人)だから
習慣の認識から誤用をやめて改善していくこと
として認識してしまうのだけど
そのことと自体が生きるうえでの学習であり
自分を癒すことにつながるのだなと感じます。


やっぱり身を持って、痛かったり、ショックも味わいつつ
その経験から実践し、実験し、学んできたことでしか
人に伝えることができないし、説得力をもたないのだと
痛切に感じながら、時間がかかる過程を自分にゆるしています。


同時に、わたしはやっぱり自分を強張らせて
大人のふりをして生きることが出来ない人間だなと
ドロップアウトすることを改めてゆるす許可を出しています。

自分の中に、習慣的に「他の人と同じようであれ」という
社会教育(奴隷教育)が染み付いているので
そのループから抜け落ちないように
社会から「不完全」で「欠陥している」とされないように
自分に強要し、強制しようとするのが
自分のパターンとして強いからです。

だから、何度でも、いつでも、意識的に
それを外していいんだよとじぶんをゆるすことは
大いに必要で、自分に力とバランスを取り戻させることなのです。


自分のどこかで
「わたしには力が無い」
と無力感や失望を感じるとしたら
本心で望まないことを努力するのに
相当のエネルギーが必要で
生きることにもエネルギーが枯渇する事態が発生します。

だからこそ、現代は病気になる人が多い。
それは、病気になる人がおかしいのではなくて
病気にならざるを得ない社会という集合意識があるから。


だから、一生懸命やっていて病気になってしまったら
自分を責めなくてもいいのだと、わたしは伝えたい。

けれども、それは、病気になった社会が悪い
自分以外のものや環境が悪いのだと責めるのも
何の役にも立たないのだ、ということも伝えたい。


責めることは、力を回復する役には立たない。

自分に力(生命力、可能性、バランス、調和)を回復するには
自分を見つめて、習慣的&自動的パターンを知る必要がある。

そこで、役に立っていない、不快を生み出すパターンを見つけ
やめていくと同時に、快を生み出す新しい在り方を身につける。

それを練習していくことでしか、本当の力は回復しないし
時間をかけ、労力をかけて、それをするのがいちばんの近道。


解決方法は、未知に飛び込むことだったり
いちばん不可解なことをうけいれることだったりする。

でも、それが、学ぶということ。

学ぶことは、不可知のカオスに飛び込むことでしか得られない。
そこに飛び込み、混乱と不確かさにまみれて初めて
発見という喜びと、癒しという学習が起こる。


だから、あきらめないで
途方に暮れたときほど、未知に飛び込んでみる。

わけのわからなくなる混乱ほど
コントロールという緊張を手放すいいチャンスはない。

手放した途端、着地してる。


安定するのは、不安定になることをゆるしたときだけ。
不安定をゆるさないかぎり、安定することはありえない。

そう、体の構造も、心も教えてくれてるのを
そろそろ思考もコントロールしたがりをあきらめて
手放してみたらどうなのだろう。


そうやって、それぞれがほどけてくることができたら。。

まずは自分からそれをはじめようと思い、実験しています。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月3日金曜日

とことん放牧

まだ自分にゆるせてないことがいっぱいあるなぁと感じる。

わたしはどこまで自分をゆるす気なのだろう。
あまりにも膨大すぎて途方に暮れることもある。
でも、それも今の自分の決めたこと。
途方に暮れてる暇は無い。


自分をゆるすことは、誰かをゆるすことでもある。
それは、同時に過去をゆるすことでもある。

血色がなくなるほどぎゅっと力いっぱい掴んでいた手を離して
手の中に血流が戻ってくると同時に、空という自由を手に触れるような
そんな作業をくりかえしている。

今までどれだけのことにこだわってきたことだろう。
今までどれだけの思いに縛られてきたことだろう。
今までどれだけのルールに囚われてきたことだろう。
今までどれだけ苦しんできたことだろう。

自分をできなくさせてきたのは、自分だ。
自分を無力にしてきたのも、自分だ。
自分を憎み憎まれるように仕組んできたのも、自分だ。


だからこそ、性も根も尽き果ててしまってきたんだね。
そんなに握り締めるためにエネルギーを使ってきたなんて
そりゃ疲れないほうがおかしいっていうもんさ。

だから、からだにそれが出ていた。
かつてあった、めまい、吐き気、頭痛、耳鳴り、痛み、強張り、緊張、凝り。

それは、みんな自分でつくりだしていたもの。
ゆがみも、症状も、苦痛もみんなそう。

もう充分味わいすぎるほど味わってきたから、もういいね。
若いのに、いつも青白い顔して、具合悪くて、倒れていたけど
もう、そんなところからは、もう何も受け取れるものはないよ。

今、ただできることは
残っている痛みや強張りから
メッセージを受け取ること。

そして、手放して見送ること。


心の痛みは、体の痛み。
心のゆがみは、からだのゆがみ。

そんなの偏見だって
ずっと避けて聞きたくなかったけど
実感してみて、ほんとだなぁって今は思える。


すべては自分の傲慢さが生んでいた幻想。
それを信じて酔っていたのがわたしの現実。

もうこれからは、目を覚ましてよく見ていこう。
見たくなかったものも、受け入れたくなかったものも
よく見てみるうちに可愛く思えてくるかもしれない。

最近、虫を可愛く思えるようになったように
見えるものへの感じ方が変わって来るかもしれない。


欲張るのは、自分への愛が足りていなかったからだった。
だから、そんな色んなことが起きていたんだね。

ごめんよ、わたし。
見捨てておいた、わたしが間違ってたよ。
ゆるしておくれ。

それでも、こうしてそばにいてくれた
自分のからだはえらくて、ありがたい。

こんなに愛してくれる存在が居たのに
いつも忘れてしまうのが、傲慢さ。。

からだが自分を愛してくれるように、自分を愛そう。
からだが寄り添ってくれるように、自分に寄り添おう。

そうして、自分全部と愛し、愛されて
トラのバターみたいに、とろけて交じり合って
いっしょくたになれたら
新しい自分が始まるんだろうな。


小競り合いじゃなくて、すなおなやりとりを。
批判的な目線じゃなくて、愛のある見守りを。

自分とそうやって重ねていけたら
きっと世界が変わってくる。


できない、こわいと避けてきたことを
そうやって、ちょっとずつ取り組んでいけばいい。

誰かのやっているように、誰かのような速さで
わたしはやることができないからこそ
ほかの誰でもない自分ができるように
自分のできるやり方とペースを贈り物にして
とことん自分にやらせてあげよう。


それしかできないの?とか
まだそんなことやってるの?とか
外側からの目線はもう気にしなくていい。

それを気にすることは、何の役にも立たない。

ゼロから始める、幼稚なくらいのところからやりなおす。
それができることは、自分へのものすごい贈りものだ。

ただすなおに、自分にできないことを認めながら
そこまで戻っちゃったら戻りすぎじゃない?と思えるくらい
根本の根本まで戻るほど、後の変化はきっと大きい。

その可能性は未知だけど、信じて歩めば
必ず道がひらけるから。


外側をつくることは、早くて立派に思えるけれど
ほんとは、内側からできあがってくるのを待つ方が
ずっとずっとパワフルで可能性が無限大。

信じて待つのは、骨が折れるし、心もくじけそうになる。
でも、そこをこらえて、じっと待つほど素晴らしいものが出来上がる。
生命は、そうやっていつも育まれて生まれてくるのだから。

特別なものほど時間と労力がかかるから
自分にそれをゆるしてみよう。


自分には、そんな価値も時間も労力ない、と思うとしたら
それでは何も成長せず進歩しないことや
既存の型で済ませようと望んでいるのと同じこと。

ままならない現状に引きずられ
コントロールされているところから抜けるには
いったん止まって戻ってみることがいちばんの近道。

馬鹿だと笑われても、阿呆だとののしられても
みんなと信じてるもの、見えてるものが違うのだから
風当たり強くても仕方ない。


大量生産されたひとつとして生きたいのではなく
世界に一人しかいない自分をありのまま生きたいなら
なおさらのこと。

あきらめたら、そこでの進化はもう生まれない。

だからこそ、とことんまでに、自分にやさしく。
外がどんな天気でも、内に秘めてたものを放牧してみる。

時には逃げながら、時にはかわしながら
自分の大切なものをとことんやさしく可愛がろう。