2010年12月4日土曜日

体験から学ぶことは、自分を癒すこと

どこかで自分を責めている自分がいる。
他者という目線が入ると、とたんにその自分が現れる。

いえいえ、わたしはそんな良いものではありません。
いえいえ、わたしはこんなダメなところばっかりなんです。
いえいえ、わたしは何にもできないんです。
いえいえ、わたしはとんでもなく無能なんです。


そうやって挙げ連ねればきりがないほど、
どれだけ自分を貶め、辱め、批判し、強要してきたことだろうか。

それが、過去の記憶に基づく信念体型から
始まってしまっている習慣的&自動的反応パターン。

だんだん、これをやってる最中に
自分でやってることを意識できるようになってきた分
あー、こんなに自分で自分に無能さを強要してたんだ
と気がついてびっくりします。


「今年の汚れ、今年のうちに」って
どこかの洗剤のキャッチコピーじゃないけれど
自分の習慣的パターンも、今そうやってクリーニング中で
新しい自分になる準備をしているんですね。


ほんとに、びっくりするくらい
自分のもう繰り返したくないパターンがデフォルメされて
日常で日々起こっている。

もうイヤー!!!ってならないと
そこから脱するシフトができないから
強烈に自分にショックを与えてくれてる。

もう、ほんと、笑っちゃうくらい。


こないだは、大分の家で
東京に来る前夜食べた水炊きの鍋の残りを出しっぱなしで
そのまま東京に来てしまって腐らせてしまって
当然、夫に電話でめちゃめちゃ怒られてしまった。

それで、あんまりにも自分が情けなくて
ホントだめだなぁとか、どれだけ自分を責めてるか
どれだけ自分を虐げて罰してるか
そんなことに深々と気づいてしまって
そのあまりのインパクトにたくさんの感情が一気に動いて
気がついたらこれでもかと涙が出てきて泣いてました。


リズ・ブルボーの「5つの傷」を読むとわかるのだけど
わたしには「侮辱」の傷があり、自分を侮辱し、相手を不快にさせるような体験を招き
夫には「不正」の傷があり、相手を責め、自分を責めるような体験を招き
そうやってお互いに自分の傷を浮かび上がらせて
それを癒す必要があるんですよと教えあい、学びあっている。


それもわかってきたら、ありがたくて、これまた泣けて
もう色んな思いと感情がごっちゃになって
泣けて泣けて仕方なくて
久々にポロポロ泣いてしまいました。


こういうのも、過去の記憶のクリーニングなんだなぁと
思えるようになってきたのもありがたいこと。。

ホ・オポノポノの考えとしてのクリーニングは
そういう面で、とても理に適っているなと感心しきり。

常に人には救いの道が用意されているのだけど
それを見つけられるよう、目をふさいでいるものをとりのぞく
それがどれだけ大切なことか実感します。


わたしはヒーラーでもなく、セラピストでもなく
(そう感じたり、思ってくださっている方もいらっしゃると思うし
 わたしもそうなりたいと思っていた時期もあるのですが)
アレクサンダー・テクニークを学んできた
ティーチャー(伝え教える人)だから
習慣の認識から誤用をやめて改善していくこと
として認識してしまうのだけど
そのことと自体が生きるうえでの学習であり
自分を癒すことにつながるのだなと感じます。


やっぱり身を持って、痛かったり、ショックも味わいつつ
その経験から実践し、実験し、学んできたことでしか
人に伝えることができないし、説得力をもたないのだと
痛切に感じながら、時間がかかる過程を自分にゆるしています。


同時に、わたしはやっぱり自分を強張らせて
大人のふりをして生きることが出来ない人間だなと
ドロップアウトすることを改めてゆるす許可を出しています。

自分の中に、習慣的に「他の人と同じようであれ」という
社会教育(奴隷教育)が染み付いているので
そのループから抜け落ちないように
社会から「不完全」で「欠陥している」とされないように
自分に強要し、強制しようとするのが
自分のパターンとして強いからです。

だから、何度でも、いつでも、意識的に
それを外していいんだよとじぶんをゆるすことは
大いに必要で、自分に力とバランスを取り戻させることなのです。


自分のどこかで
「わたしには力が無い」
と無力感や失望を感じるとしたら
本心で望まないことを努力するのに
相当のエネルギーが必要で
生きることにもエネルギーが枯渇する事態が発生します。

だからこそ、現代は病気になる人が多い。
それは、病気になる人がおかしいのではなくて
病気にならざるを得ない社会という集合意識があるから。


だから、一生懸命やっていて病気になってしまったら
自分を責めなくてもいいのだと、わたしは伝えたい。

けれども、それは、病気になった社会が悪い
自分以外のものや環境が悪いのだと責めるのも
何の役にも立たないのだ、ということも伝えたい。


責めることは、力を回復する役には立たない。

自分に力(生命力、可能性、バランス、調和)を回復するには
自分を見つめて、習慣的&自動的パターンを知る必要がある。

そこで、役に立っていない、不快を生み出すパターンを見つけ
やめていくと同時に、快を生み出す新しい在り方を身につける。

それを練習していくことでしか、本当の力は回復しないし
時間をかけ、労力をかけて、それをするのがいちばんの近道。


解決方法は、未知に飛び込むことだったり
いちばん不可解なことをうけいれることだったりする。

でも、それが、学ぶということ。

学ぶことは、不可知のカオスに飛び込むことでしか得られない。
そこに飛び込み、混乱と不確かさにまみれて初めて
発見という喜びと、癒しという学習が起こる。


だから、あきらめないで
途方に暮れたときほど、未知に飛び込んでみる。

わけのわからなくなる混乱ほど
コントロールという緊張を手放すいいチャンスはない。

手放した途端、着地してる。


安定するのは、不安定になることをゆるしたときだけ。
不安定をゆるさないかぎり、安定することはありえない。

そう、体の構造も、心も教えてくれてるのを
そろそろ思考もコントロールしたがりをあきらめて
手放してみたらどうなのだろう。


そうやって、それぞれがほどけてくることができたら。。

まずは自分からそれをはじめようと思い、実験しています。


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