2015年1月3日土曜日

新年のごあいさつを申しあげます

新しい一年のはじまり、おめでとうございます。



だれかの書き込みで

「なぜ、新年の挨拶は、あけましておめでとうなのか?」という疑問が書かれていて

「あけまして、おめでとう。って言う気持ちになれない」とあったのが、

わたしにヒントを与えてくれました。



実はわたしもまったく同様に感じていたところがあって

なんで「おめでとう」なのかな?

とハテナを持ってしばらく過ごしていました。



それで、ふと気がついたのですが

「年が明けました」という結果があってからの「おめでとう」なのではなくて、


「新しい年」を「おめでとう」で始めることで、そのエネルギーをチャージする


っていうことなのか、と。。。

(39年生きてきて、初めて身を持って気がついた~~~!!!)




これと同じことがたぶん、お誕生日や誕生にまつわる儀式にも言えること

なのだということにも気がついて

例えばイエス・キリストの生まれた日に三賢人が贈り物を持ってやってくるとか

お食い初めや一升餅背負う儀式とか、

多くはみんな、お祝いであり、願いや祈りを込めたもの

ということを想い出して、なるほど~と。。



わたしはクリスチャンではないけれど、キリスト教系の学校で育ったので

そういう物語を6年間繰り返し学んできて知っているわけなのですが

イエス様の言って行っていたと書かれていたことも、たしかにほぼ



結果の前に「起こることを決める」ことで、その結果(いわゆる奇跡)を起こしていた



ということだったと思い出しました。





それって、アレクサンダーが言って/行っていた


発見→観察→分析→選択→決断→実験


というプロセスと同じではないか!という発見。






教師養成トレーニング生時代にも、これに気がついて

へぇぇぇぇ!面白い!ってなってたのだけど、改めて思い出して、なるほど~!となる。




それでもって、なぜ奇跡なのか?と疑問を持つと、それって



奇跡=本人や周りが起こるとは信じていない結果



っていうことになる。



(裏を返せば、奇跡が起こせるっていうのは、

 それは意識にのぼらないほど当たり前になっている

 つまり、否定や疑問の入る余地がない、ということ。)




それで、はじめの「なぜ新年は、あけましておめでとう、なのか?」

という疑問に戻ると、

新しい年を漫然と始めて、そこそこの年にするのではなくて



新しい年をおめでたい年にします!という選択を「意識的にする=決断する」



ということなのか!と。



ふああ!びっくり!!すごいな、先人の賢人たちの智恵!!




というわけで、新しい年をおめでとう!で安心して始められそうです。(やったー!!)


皆さまにとっても、今年がおめでとう!な日々でいっぱいになりますように!!



新年あけましておめでとうございます☆



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