2010年4月2日金曜日

とどのつまりは





結局のところ
わたしは自分以外のものにはなれないし
なる必要もないのだ。

ということがわかってきて、ほっとしている。


何か外側に正しそうなものや良いとされてるものがあると
自分の基準もそれに合わせなくては!と思っていた。
それも、ものすごい無意識のうちに。

でも、それすら必要はない
自分が意識的に望まない限りは。



今起こっていることをただそのまま起こらせること。

それってなかなかできないことだったりする。
もっと何かすべきだとコントロールしたがったり
何か余計なことをしたがるくせがある。



そういう自分の習慣的な無意識の反応に気づくことが
アレクサンダー・テクニークなのだけど
体の姿勢とか構造のことばかりにとらわれると
とたんに窮屈なものになっていく。



わたしがこのところしばらく
アレクサンダー・テクニークを教えることに
どうしても興味が持てなくなってたのは
そういう部分に関してだったんだなって気がついた。


今のわたしは自分を正しく使うことには興味がない。
特に、理論とか解剖学とかの知識に縛られるようなこと。


わたしは人間の心理・思考・身体それぞれの相互関係と
その反射のメカニズムに興味があって
それを体感することで理解を深めている。

だから、わたしは、知識を学びたい人にはまったく役に立たない。
体験したい人には、混乱というプロセスを通して教えることができる。
混乱なくしては本当の学習は起こらない。

学習は、知識として頭で理解したことが
体験として体に落ちていって
それが日々の行動に染み渡ることなのだと思う。

大切なことは、体験として体に落ちていく時点で
頭に上ってくる理解が起こることはなくて
体感を伴って体で理解できたときに
それが何だったのかを脳で理解できるようになるということ。

このプロセスには、その人に必要な時間を経て
何度でも起こってくることでもある。

そういう時間差を理解できなくて
インスタントに、即時に理解ができないといけない!!
と思っているがゆえに「待てない」ということが
自分の学習の機会を妨げてしまったり
自分のうちにジレンマという苦しみを生み出す原因になっている。


思うに、学習のプロセスが流れにのっているときは
たいていの場合、遊びや冒険の要素が含まれている。
言い換えてみれば、それは新しい可能性が生まれるだけの
ゆとりや余地の居場所が与えられているということでもある。

学習するということを考えるとき
わたしたちは必要以上に真面目すぎてしまうのかもしれない。
本当はもっと自由を自分にゆるしてもいいのかもしれない。

それは、自分へのコントロールへの手綱をゆるめる
と言い換えてもいいだろう。



わたしがアレクサンダー・テクニーク単独では教える気が起きなくて
演劇とかアートの要素と合わせたときに興味が湧いてくるのは
そういう自由の要素が創造する場にはあるからなのだろう。

そういえば、ワシントン州立大教授で
演劇+アレクサンダーを教えてるキャシーも
同じことを言っていたその心情を
今だから本当によく理解できる。

やっぱりわたしは演劇・アートの世界からは離れられないのだ
ということを改めて知らされる瞬間。
骨の髄まで、わたしはそういう創造の場を必要としている。

実験の場=失敗する自由も許されているということ。

そういう場が、わたしにはとても必要で
わたしが“普通”の社会で生きづらさを感じるのは
その感覚があまりにも許されていない雰囲気を感じるからなのだろう。



思えば、わたしの30歳までのほとんどの時期と情熱は
演劇や身体表現などのアートに注ぎ込まれていた。

あまりにも愛しすぎて、その情熱を使い果たして
今は遠巻きにしているスタンスかもしれないけれど
それでもやっぱり愛していることに今更ながらに気がつく。

結局のところ、わたしはそこから逃れられないのだ。
というより正確には
その中にどっぷりと浸かってしまいたかったのだ。

愛して愛して愛しすぎてあまりにもそれが当たり前で
愛しすぎるがゆえに憎んで嫌ってみたりもしてみて
そんなことに気づく間すらなかった。


わたしはアレクサンダー・テクニークを愛しているのではなく
演劇というアートを通して人間を理解したかったんだな。
だから、演劇というツールを選んだんだなと
今更だけど、ようやく心底よーくわかった。


やっぱりわたしはアレクサンダー+演劇なのだ。
それ以外には、どうあがいてみても選択しようがない。

それが、わたしの生きていく証なのだ。
全ては人間を理解し、人間の生み出す物語を理解するために。



今まですべての体験は
そのことを本当に理解するためにあったようだ。
これからやっと新しい第二章が始まる。

なぜだか、そんな気がする。
大げさかも知れないけれど。