2015年5月1日金曜日

今日は、シャーマニズムとパフォーマンスのことを考えてた


台所しごとをしながら、ふと、シャーマニズムと演ずること(踊ること、奏でること含む)についてあれこれ浮かんだこと、書き連ねてみようか。。

大学時代、演劇史の授業でだったか、「依り代としての身体」という言葉が出てきて、それが確か白拍子の話の時代のことだったから、安倍晴明なんかも活躍していた平安時代あたりの話だったと思う。

たぶん、踊ることや演ずること、奏でることは、なぜか世界共通で、神さまへの捧げものであったり、儀式として、あの世とこの世の橋渡しをする役目があったのだけど、演じ手(パフォーマー)は自分の存在をからっぽにして、そこに神さまだったりそれに近いものを自分の存在におろして、それに身を委ねて表現をする、ということで、聖と俗をつないでいた。

パフォーマンスだけに限らず、表現活動すべて、アートやスポーツでも、自分を超えた何かに動かされているフロー体験というものがある。

それが現象として現れることのできる「依り代としての身体」があるとき、自分のすべてを明け渡して、奇跡のような感覚や体験を享受したり、提供することが可能になる。

気功治療やエネルギーワーク、以前参加した「みくさのみたから」でも、アートと治癒とシャーマニズムは同じところにあるものとして教えてもらったけれど、まさに内在する動きを表現する舞踏なんかもそうだし、そうではなく、型が決まっていたり、決まりごとや振り付けのあるものですら、繰り返し稽古するうちにそれらが体感の中に没入して一体化するうちに、究極的な俯瞰と同時に「それ」が起こる。

「それ」に至りたくて、あれこれしてみたりする人もいれば、もともとそういう素質が多分にあって無自覚な場合、自分を扱いづらいように感じてしまっている人も中にはいるのだと思う。

私自身が後者の傾向がある人間なので、日々模索の最中なのだけど、共感能力として自覚できれば、もっとらくに生きられる可能性は大きく拡がる。

さっき、ふと目にしたスピラボのサイト の「エンパス(共感能力者)の人が共感能力をどうしたらオフにできるか」という項目を読んでいたら、自分な好きなものを思い出す、というエクササイズが紹介されていた。

以前、シアトル大学で俳優むけの授業をしているアレクサンダーテクニークの教授のキャシー・マデンさんに、私が「役と自分が同一化してしまって、自分がわからなくなってしまったらどうしたらいいの?」と質問したときの答えとまったく同じで合点した。

役に共感しすぎることも、他者(自分以外のすべて)に共感しすぎることも同じで、自分を明け渡してしまうことだから、その役目が終わったら、自分に戻ることが自分という生命にとって大切なことなのだ。

自分の素の感覚、愛してやまないもの、心地よいもの、そういったものを思い出すこと、そういったものに触れることが、自分を取り戻すことで、だから、病気になった人たちが自分の好きなことややりたかったことをがんがんやりきったら自分の生命力を取り戻していた、ということが起こるのだなと納得した。

舞台や人前に立つパフォーマーだけでなく、自分の生命を生きる上で、他者を生きてしまうことから卒業していくことが大切なわけも、きっとそこにあるのだなと思う。

だからこそ、自分の好きなものを自分がすることに許可を出そうと思った。

というお話でありました。