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2011年10月30日日曜日

I love you:) をいうために



みんな生まれて、今ここに存在してるのは
I love you:) をいうためなんじゃないか

という気がしています。


バシャールが言うには
人間本来の姿は「愛の状態でいること」だそう。

それって、存在そのもの自体が
I love you:)
って自分自身にもまわりにも表現してることかも
って思ったのでした。


赤ちゃんと母乳の話とか、色んな生き物の子育ての話とか
身体のしくみとか、いろんなこと読んだり聴いたりしてて
食べ物が血や肉や骨をつくり、意識とも相互に影響しあってるなら
その存在の発するバイブレーションが
生命の機能や環境に影響するのも
それは当然なのに、目を瞑ってたな、って気づいた。

赤ちゃんがお母さんのお腹にやってくるのも
赤ちゃんからの I love you:) だし
そもそも、その起こりも父母となる男女が
 I love you:) を表現しあったからだし
自分も少なくともたくさんの先祖たちの
色んな I love you:) の結果生まれてきてる。

ってことは、じつはわたしたちの細胞って
無数の I love you:) からできてるんじゃん!
という圧倒的にびっくり仰天な事実に気がついた。

もちろん、途中のだれかが悲しい結果として
生まれ育った歴史もあったかもしれないけど
少なくともそれは先祖全員ではないはずで
やらかしちゃったり色々あったにせよ
よろこびとともに生命をさずかった
ということが多いのだろうと勝手に憶測してる。
だとしたら、どれだけのよろこびや気持ちよさや I love you:) が
わたしの生命の中に注がれてきたのだろうと思う。

これまでの哀しい歴史や想いも
そのよろこびや I love you:) の中で溶かして
わたしの中で消化/昇華していかれたら。

何より次の世代、後の世代へは I love you:) だけを伝えたいから。
うまくいってなかったことは消化して、昇華して
新たな可能性につなげていけたら。

何がどうあるとしても、希望やよろこびとともに居たい。
そうは言っても、実際に子育てしたら
こらー!とかやってるかもしれない(笑)。

でも、そんなときもいつも I love you:) を伝えていられたらいいな。
愛する相手にも、自分にも、出来事にも。

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2011年10月13日木曜日

何かをどうしてもやめられないとき


カラダとなかよく きもちよくSudio Saltia*の オカナオです。

さきほど、お休みのご案内を載せたばかりですが
書けるときにちょこっとずつだけでも。。

過日、何人かの方から同様のテーマで質問がありました。

「何かをどうしてもやめられないとき、どうしたらいいでしょうか」
「思う通りにいかないとき、自分をどう扱ってあげたらいいでしょうか」

それぞれに細かい内容は違うものの
自分と対象との関係性に関してのテーマ
としてみると共通です。

わたしの書くことは、今のわたしの考えなだけで
わたし以外の人にとってのこたえとなるものかはわかりませんし
明日になれば、わたしにとっても変化しているかもしれません。

そのくらいのつもりで読んでもらえたらなぁと思います。


何かをやめられないとき、というのはわたしにもあります。
過去の自分を振り返ると、特にいろいろ出てきます。
その中から、今は脱したものを振り返ってみましょうか。

では、その例のひとつとして、パズルゲームをあげてみます。
(ゲームを、それぞれのやめられないものにあてはめてみてください。)

わたしは以前、パズルゲームが大好きで
始めたら最後、よほど気をつけていないと
暇さえあればずっとパズルゲームをしている
という状態に陥っていたことがあります(笑)。

朝起きたら、眠気覚ましにゲーム。
電車に乗ったらゲーム。
待ち時間はもちろんゲーム。
料理の合間にもゲーム。
ご飯を食べ終わったらゲーム。
お風呂あがったらゲーム。
眠くなるまでゲーム。
でも、眠くならないからゲーム。
眠くならなくて、気持ち悪くなるまでゲーム。

そんな有様で、今思うと、よくそんなにやってたなー
と笑ってしまうくらい、はまりこんでいました。

じゃあ、やめようと思っていないの?意志の力は?
というと、やっぱり自分の中にはあるわけですね。

ほんとはもっと有効に時間を使いたいのに。
ゲームするよりも、もっと大切なことをしたいのに。
自分が気持ち悪くなるほどゲームなんてしたくないのに。
ゲームおもしろいけど、ほんとはどこかでうんざりしてるのに。

と、~なのに・・・ のオンパレード!

自分がなんでそれをやってるのか。
ほんとはどうしたいのか。
今、どんな状況で、それを自分はどう感じてるのか。

ただジャッジしないで観察できるようになってから
こういう状態から抜け出しやすくなりました。

というわけで、この状態になって卒業できたのは
アレクサンダーの先生になってからの話で
つい最近のことだったのですね。


でも、そのおかげで、とてもよいことがわかりました。

それは、自分の状況がどうなっているか観察するのにも
自分が本当はどうしたいと思っているのか知るときも
自分がその状況に関してどう感じているのか気づくときも
その状況でも、ただ「そうかー、そうなのかー」と観察すること。

つまりは、観察することに、批判を一切はさまないで見ること。
ただありのままに見て、ありのままにうけとって
自分がほんとうはどうしたいか、ということにYESを言うこと。
そして、それにYESを言うことを自分に許してあげること。


わたしたちはどこかで、認められていない、とか
自分は許されていない、とか
自分で自分に判定を下してしまいがちだったりします。

そうして、自分を押しやってしまうことが
状況をありのままに見てあげられないこと
また、そこから生じるあきらめや自暴自棄さなど
自分を大切にしてあげられない状況を生み出します。

そのことに気づいたら、ふと立ち止まって
ただ、少しだけ自分にちょうどよい距離をもって
しずかにそっと自分を見つめてあげてください。


自分を罰する必要も、押しこめる必要もありません。
ただ、そうしてしまってきた過去の自分のやり方をゆるしてください。
それは、あなた本来の姿ではなくて
その時はそうするよりほかの方法を知らなかっただけなのだと
ただ、そのことを知って、ゆるしてあげてください。

あなた本体は、もっと深く、ずっと揺らぎないところにあります。
わたしたちはいつも、そんな自分自身を忘れてしまいます。
だから、ふと立ち止まって、自分を見つめる必要があるのですね。

だから、ゲームはわたし、わたしはゲーム
という同化状態に本当はならなくてもいいのです。

今はただ、そういう状態の自分が自分ではないこと。
それは自分の選択してきた古いパターンであること。
それは、これから自分が意識的に選択すれば変えられること。

それらを知っていてください。

まずはそこから、あせらずにじっくりと。

時間のかかる自分を、自分のプロセスを
そっと見守ることをゆるしてあげましょう。

今日はここまで。。。



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2011年8月20日土曜日

カメ ⇔ ガメラ

自分とつながるSudio Saltia*の オカナオです。

しばらくPC酔いして、見られない、触れない、という時期がつづいて
2ヶ月半ほど何も書けないでいましたが、ようやく復活。。

夏の蒸し暑さと気圧の不安定さに参ってしまう わたしには
熱を発するPC作業も、体にも、夏休みが必要だったようです。


さて、今日はブログを再開するきっかけとなった
眼からウロコな新たな発見、体験について書きたいと思います。


今日のこの再開のきっかけ、じつは「怒り」のエネルギーなのですが
何度体験してもほんとうに、純粋な「怒り」のもつチカラって
すごく創造的で爆発的にパワフルで、まさに蒸気そのもの!

水が蒸気になるときに約1700~1800倍になると言われていますが
(気圧によってもその倍率が変わると言われていますが)
人間も、「何かしてやるぞ!」と活動的になるときって
「怒り」だったり「ショック」だったりの負荷(ストレス)が
平常時の意識や体の状態やパターンに揺さぶりをかけて
アドレナリンや色んなホルモンを誘発させ
今までのパターンを大きく飛び出すことで能力を爆発させて
火事場の馬鹿力だったり、瞬発力や天才的能力を発揮させるんですね。

そんなわけで、今日はひさびさにびっくりして
純粋な「怒り」のエネルギーに感電したようになって
ふだんカメのようだったのが、ガメラのように「うおー!」となり
そのついでなのか、気づきと発見の連鎖。

そんなわけで、こりゃ、書かなきゃやってられんわい!と
ブログ再開にいたったわけです(笑)。


まぁ、そこまではもういいとして、じゃあなんで怒ったのか。

それは、自分でもわかっていて何度も反省したり嫌悪してるけど
なかなか変化(傍目から見て)できなかったり、改善できてない痛いところを
「お前、全然わかってねーだろー」としつこくつつかれたから!
(うぎゃー!いや~ん!苦笑)

で、これをふだんは、「なんでそんなこと言うの!ひどい!きー!!」
って怒って、相手のせいにして反発してるのが今までのパターン。
(それを相手にぶつけるにしろ、自分ひとりでイライラするにしろ。)

今回はそれが、「あー、来たな。わたしが自分や他人にやってきたことだ~」
って瞬時に思って、でも自分でそれが意識にのぼっては自覚できていなくて
まずは自分が怒ってることを表現して「むむむっ」とお互い距離を置いて
頭を冷やして、起こった出来事を観察する時間をとりました。


それで、一人になって、まず湧きあがってくる感情をそのままにして
何が起こってるのかな?と自分の中や観察したことをゆっくりながめて
そのまま何かしようとしないで放置しておいたら
「あ、なんだ、そういうことなのか」ってわかってくることがやってきて
そしたら意識(思考)はだんだん落ち着いてくるんだけれど
体と感情はまだ何となく落ち着かないまま。

なぜなら、ほんとは認めたくなくて、許せないで来た自分の一面を
相手からずばーん!どうだ!ってやられることで見せられたから。

つまりは、相手を許せない!って思うこと、イコール
自分の中にあるそういう一面を許せない!っていうこと。
(逆もまたその通り・・・ひえ~~!)

そういうことを読んで知ってはいたけれど
久々に血が逆流するんじゃないか、という怒りとショックで
こんな風に体験させられるのはキョーレツ。。

それで、もうこんなことあんまり繰り返したくないよー
とばかりに、宿題を仕方なくやる子どものように
「相手の見せてくれたのは自分の姿、相手を許すことは自分を許すこと」
と思ってはみるんだけれど、何かが引っかかる。


それでまた、場所を変え、お気に入りの場所でお茶をしながら
心と体がまぁるく和らぐまで待ってみることにしました。

そうして、お茶をしながらゆっくり思いを文字にしてみたりしてみると
自分が問題だと思っていたことは、自分の外にあるんじゃなくて
自分の内側にあるんんだな、ということに気がついてきて
じゃあ、自分が見ていた相手への見方が違ってみてもいいのかもしれない
わたしはどうしたいんだろう?なにを大切にしたいんだろう?
という視点に移動できたら、ふっとゆるんで、チカラが抜けました。

問題を力づくで解決しようとする=自分の理想にこだわることから
まずはいったん、内側からゆるんでうけとめてみることへ。

変化というのは、本来は外側によってなされることではなくて
内側からみずから起こってくることでなされるものだと
はっとするほど鮮やかに気がつかされた瞬間でした。

そうすると、問題を解決しようとすることに使っていたエネルギーが
自分のねがいを創造する方向性へと向かっていくのがわかって
体と心が整って融和していくのを感じられてきて
ほわわとしあわせな気分になりました。

帰り道、歩きながらぼんやりと
そこに起こった出来事や問題は自分の外側にあるのではなく
自分のうちにあるもので、自分の臨み方がカギなんだ
ということに、「やっぱりな~。そうですか~」と降参。


そうしたら、またダメ押しで発見がもうひとつ。

相手にわかってもらいたい、相手はわかってくれているはず
しかも、それが当然の前提になっているという無意識の期待や思い込みが
問題となる出来事を引き起こしていたんだなっていうことに。

自分ですら、完璧に自分のことをわかってなんかいないというのに
相手に自分をわかってもらおう、わかっていてくれてるはず
なんて思うのは、なんと過大すぎる期待であったことか!(笑)

自分が自分のことがわかってないなら
相手がわたしのことをわかってくれてなくても、なんだ、いーじゃん!
ってフラットに思えたら、すーごく楽に。

もう起こった出来事を否定しないで、受け止めよう
と大人しく納得しました(汗)。
(そして、くたくた・・・。笑)


と、これを書いたら、ガメラもカメに戻れました。
やっぱり書いてエネルギーを放散することは大切ですね(笑)。

エネルギー(感情と爆発的体内反応など)の純化と意識のクリアリング
それに心身の統合の大切さ、改めて思い知らされました。

最後まで長いシェアを読んでくださり、感謝です☆


あー、つぎはホームページの更新だ~↓ ちいさくがんばります(汗)

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2011年5月31日火曜日

YES と NO と シンプル化

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


先日、気づいたことをシェアさせていただきます^^


自分の中でのもやもやが、どうにも渦巻いてしまって
そこから出られない時期が少し前にありました。

思考が混乱すると、生命力も低下してしまうんですね。

自分で自分の本音が見えなくなってしまって
外側の意見ばかり聴いて判断していると
身体も感情もちゃんとサインを出してくれます。

今回わたしは、身体が動かない、何もできない!という
完全にバッテリー切れ状態になりました。



人間は生きものなんだけれど、ロボットみたいなんですね。
電気で動いているみたいに、わかりやすい。
内的抵抗が大きいとショートして、消耗や故障をしてしまう。

イヤだなと感じること、苦手なこと、本来の自分と離れてること
そういうことをするたびに、バッテリーはどんどん減っていく。

そのかわり、大好きなこと、ご機嫌になれちゃうこと、得意なことなど
自分にとって「快」が生み出されるたびに、バッテリーが増えていく。



じゃあ、好きなことだけやって
イヤなことみんなやめたらいいじゃない!

ほんとうは、そうなんです。
シンプルにそうした方がいい、断然。


でも、そしたら、なぜそれができないのか、というと
自分の頭の中の「常識」になってる『考え』が
自分がシンプルに生きるのを邪魔してしまうんですね。

つまりは、自分の人生やできごとを複雑化しちゃう。


だから、好きなことをする!自分の心に従って生きる!って決めても
自分の頭の中を大掃除しないことには、好きなことも苦行になっちゃう。

なぜなら、どんなときも頭の中で
「みんな苦労してるのに、わたしだけこんなことしてていいんだろうか」
「こんなことしてたら、他の人とうまくやっていけないに違いない」
「わたしばかり好きなことして幸せになったら、何て言われるだろう」
などなど、真面目で心やさしい人ほど自分を責めてしまうのですね。
(それはまさしく、わたしのことです。笑)

それで、周りの声、社会の声、常識だと思っているものに振り回されて
自分にとって大切なことや、何がYESで、何がNOなのか
自分の本音がわからなくなって混乱してしまう。

そうすると、身も心もちいさく縮こまっていってしまう。



そうすると、ここで感情と身体によるレスキュー出動です。

混乱した自分を助けようと
自分自身の本音を聴きやすいように
苦痛を通して警報を鳴らしてくれるんですね。

痛みや苦しさ、心身の病気や故障などを通して。

はじめは、小さく。
気づかなければ、どんどん大きく。


それで、本音と離れたところに迷走しそうになると
あなたの本音はここに居るんだよ、こっちだよ、気づいてよ!
とばかりに、我に帰るよう引き止めてくれます。

つまり、登校拒否とか出社拒否をはじめ
心身の不調は、自分の頭のすすめたがる方向性にNOを言ってくれる知恵。


そのメッセージを聴ける自分になることが、
気づきや悟りと言われるのかな、なんて思ってしまうくらい
本音にすなおになるって、ほんとうに腑に落ちる体感をともなう。

なぜなら、『常識』や『世間』を超えて感性をクリアになるほど
本音の自分の声を聴いて、寄り添うことが、すとんと簡単になるから。


わたしも、頭の「よかれ」と思う方向性と
本音の「YES」という方向性が離れてしまったがために
アクセルにブレーキを踏んだ状態でエンジン空回り⇒バッテリー切れ⇒エンスト
ということになりました。

だから、自分の中で感じていること総点検して
YESとNOとを整理して、どうしたいのかを調べています。


混乱しすぎて生命力が落ちてると、整理するのもままならないので
そのときは応急処置的に、自分に大好き三昧をさせてあげる。
(そのあたりについては、こちらをご参照ください。)


そうやって、生命力を取り戻したら
何を感じてるのかを手がかりに「YES」と「NO」の分別作業。

「こうしたらいけないんじゃないか」とか
自分内ジャッジ(外側の声に思えるものも含め)は置いておいて
周りにドン引きされても、反対されたり非難されても
自分にとってどうしようもなく「YES」なことは曲げる必要がなくて
まずそれを相手に伝える前に、自分が認めて受け入れてあげる。

だれかさんの期待に応えることが重要なことだと思ってきた人には
ちょっとばかり大変な作業になるかもしれませんが
(そういうわたしが、↑そうだったので、色んな助けを借りました)
自分の内側で感じていることを認めてあげるのにも
自分内検閲を相手の目でしてしまうことから解放してあげること。
(それがいちばん助けになる、大切な熟成プロセスだと感じています。)


そうやって、自分で自分の感じていることを認めてあげる
受け入れて居場所を与えてあげればあげるほど
駄々をこねてやっかいな気のしていたものが、すっと変わっていく。

化け物になっちゃっていたのが、もとの姿にもどっていく。
そうすると、そこで気づけたことが、自分を助けてくれる。

助けてくれると、本当に自分が統合された状態で表現できる。

「NO」を言うことが、何かを否定したり拒絶したりすることではなく
「NO」を言うときも、その向こうにある「YES」を伝えることになっていく。


わたしも、これについては、まだまだ探求を深めているところなので
「NO」を言うことが、否定や拒否になってしまっていることがあるなと感じます。

そんなときは、自分の感じていることにまだ混乱があって
よりそこを深く掘り下げていく必要があるときなのだなと思えるようになりました。

だから、誰がわるいのか、何がわるいのか、という
犯人探しをして、自分で自分をイヤな気分にしなくていいんだ!
と、ようやく気づけるようになりました。

これは、ほんとうに大きなおくりものです。



自分にすなおに生きるには
どれだけのカギをかけて締め出してるんだろう
そんな風に気づくのだけれど
気づけたからこそ、開けてあげられる。

だからこそ、わるものはどこにもいなくって
混乱と無知があっただけで、そこをお手入れしてあげたらいいだけのこと。


人のお世話を焼く前に、まず自分のお世話を大切に。

そうして、自分が快であること。

ピースフルで喜びと遊びに満ちて、自分の動きをはじめること。



シンプルでわくわくすること、に大きなYESを :)



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2011年5月6日金曜日

靴下いないいないばぁ騒動

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


久々のブログ更新となってしまいました。

とはいえ、ネタはたくさん。
書きたいことが追いつかない!


先日まで東京と札幌に行ってきました。

この数日、帰宅後の片付けや洗濯などの家事を
愉しみつつこなしていたのですが
今朝にかけてやらかしました!

靴下いないいないばぁ騒動を・・・。


札幌からの帰り道で
福岡での空港からバスまでの移動が大変かも
ということで、荷物を送ることに。

ちなみに、わたしはいつも大荷物で大移動です。。

というわけで、ご多分に漏れず
今回も大きなトランクぎゅうぎゅう詰め
もう一箱もおまけして二個口でゆうパックへ。


帰宅した二日後に受け取った荷物を
開いて整理してみたり、そのままにしたり
家事と並行して、ゆっくり片付けていたら
開けるの楽しみにしてた未開封の絹の靴下たちがない??

あれれ?あるはずなんだけどな?
それだけないって、どういうことかな??
わたし、入れ忘れたのかな??
あれれれれ??

と、頭はハテナマークでいっぱいに。

その傍らから
「もしかして、とられちゃったんじゃないの~?」
という疑いの声が・・・。

いやいや、そんなことはないでしょう
だって、他の買ったばかりのものは何もなくなってないし
靴下だけなくなるってことはないはず。。

「いや~、それはどうかな~?」

という脳内やりとり。


もうここで、わたしの中のハテナマークは
疑念マークになってしまって
どこかにみつかるはず・・・という視点は
なくなって見つからない!という疑いの視点に。

すっかり脳内では、ゆうパック盗難事件になっちゃってるorz


もうそうなったら、「ない!ない!ない!」の大騒動。

夫はまだ札幌滞在中だったので
家にはわたし&猫のみつさんだけ。

ひとりで大騒ぎして、ツイッターでも「みつからない~」とつぶやく。


すっかり疑念とショックでいっぱいになりつつ
そんなことない、きっと何かの間違いだ、という良心もありつつ
今朝になり、片づけを再開したら・・・

なななーんと、ありました。。。。

洋服と一緒にパッキングしたたたんだ布バッグの中にしっかりと・・・。


見つかって、安堵と同時にやっちまった!感がいっぱい。。
あ~、またないない騒動してしまった。。

靴下にしてみれば、いないいないばぁ。

でも、わたしにしたら、大騒動。
夫が居て巻き込んでいたら、かなりの呆れ顔のはず。

いつもこうやって、わたしは人を巻き込んで
小さなことを問題にして何かのせいにして大騒ぎしていたんだなぁと
自分の身につけてきた悪癖にしっかり気づかされました。


もしかして、これがアレルギーってことなのかも
とか思ったりして、ふむふむ納得。

そして、やらかしてしまった自分に対して、以前なら
墓穴を掘ったんだから生き埋めされなさいよ!とばかりに
自分をとことんまで責めたてては、打ちひしがれていたな
ということに気づいて
あ~、わたしも成長したもんだ、という発見まで。

そう気がついたら、それを言いか悪いかで自分内裁判&処刑したり
そのことから生じる感情に全エネルギーを注がなくていいのだと
やっとわかったんだなぁ、わたし!と、はっ&ほっとしました。


自分の中で色々な感情を生じさせて
あぁでもない、こうでもないってしてることって
家庭内のもめごとや痴話げんかみたいなものだなって
気がついたら、あ~、なるほどなって。

それが、自分内暴力やDVになってたら
そういうことがおこっているのだとまず認めてあげて
どんな誤解がそこにあるかよく見てあげることが大切で。。

習慣化されたパターンを繰り返す必要がないことや
それを責めたりさげすむ必要もなくて
ただ、それをやめていくための温かな励ましと見守り
そして、自分で気づけることと違う選択をできると気づくこと。

だた、それをシンプルにくりかえすだけで
本当は物事がずっとらくにできるようになる。


ずっとずっとそういう風に居られるようになりたくて
でもなれなくて、ずいぶん苦しい思いもしてきてたけれど
今はそれが全く別次元のようにも感じられる。

ずいぶん遠い道のりをやってきたんだなぁ、わたし。
と、ひと騒動した自分を忘れて、すっかり感心するのでした。



今日の学び。
自己嫌悪するかわりに、自己充足できるようにもなれる。

そのプロセスから生まれる苦しみは
ご褒美をおいしく味わい満喫するための演出:)



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2011年3月26日土曜日

原発反対の署名

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


おともだちのayamintさんchocooさん
原発反対の署名や運動のことについて日記で知らせてくれてる。
(おふたりとも、ありがとう!)

それで、署名や意見送付などしてみた、
ネットでも原発反対のために何かできるのなら
できることをなるべくしたい。

今までは気になっていたけれど
何をしていいのかぼんやりしていたし
そこまでの危機感を全く持っていなかった(反省)。

それが、今回、こんな事故が起きてしまってはじめて
自分がその事故に無自覚的に加担してたことに気付いた。

今さらであっても、同じ人として、福島の人や
何らかのかたちで原発にまきこまれ搾取さている人を
そのままにしておいてはいけないと目が覚めた。

NOを表現しないのは、原発に賛成してるのと同じ
そう推進派のひとたちからは見なされることにも
気がついて、深く自分を反省した。

だから、自分が思っている、感じていることを行動に。
表現することで世の中が変わるのなら
これからいくらでもしていこう。



わたしが原発反対のためにしたのは、以下。



静岡県庁が、今、
<東北地方太平洋沖地震に関する意見等>を求めています。
https://www2.pref.shizuoka.jp/all/ikenteigen.nsf/touroku
静岡県民だけではなく、多くの人が「東海地震と浜岡原発」に関して、意見を送っていただけるよう、お願いします。
chocooさんの日記より引用)





30年近く住民の反対運動で建設を阻止してきた
山口県上関原発の建設反対署名ページ
http://www.antinuke.net/kaminoseki/# 
まだ作業を進めているようです。
http://ameblo.jp/nijinokayaker/entry-10834639429.html

「みつばちの羽音と地球の回転」http://888earth.net/index.html
見た人も多いかなとおもいます。

日本は自然エネルギーが豊富なので、
方向転換のチャンスですよね。
ayamintさんの日記から引用)





STOP原発!SAVE福島!(福島の原発STOPの署名)
http://www.shomei.tv/project-1730.html




たぶん、まだ調べれば、他の原発停止の署名や運動など
できることが出てくるかもしれません。

もしも、他に情報をおもちのかたがいらしたら
どうぞお知らせください。

わたしも、また分かり次第、アップしていきます。


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2011年2月15日火曜日

こころ(自分)とからだが離れてしまっていると感じたときは

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


先日、大学の生徒から質問メールをもらいました。
(こういうのも、ほんとにうれしい贈りものです^^)


「こころ(自分)とからだが離れてしまっていると感じたときは、
 どう対処していけばいいのでしょうか?」

という大切な質問。


これは、日常の忙しさにかまけて
ついつい見逃してしまったり
無視してしまいがちなところなんですが
ほんとうに根本的に大切なところなのです。。

感性をつかって表現し、創造する人ほど
心身に対しての感度はクリアな方がいいし
メンテナンスやケア(お手入れ)の仕方を知っていることが
どれだけ重要なことでしょうか。。。

どんな仕事、立場、役割、年齢、性別であれ
感性が豊かで細やかに味わえる人ほど
ここを大切にしてもらえたら
それぞれのひとがやさしく居られるような気がします。



では、どうしたらいいのでしょう。
わたしの場合の対処法3つのケースを書いてみたいと思います。




その1 「ちょこっと自分内にズレを感じたとき」

ふと気づいたときに
あれ?なんかおかしいぞ?快適じゃないぞ?と感じて
自分の気持ちや身体にもどってみようかな
という場合の対処法です。

そんなときは、調子が良かった状態のまま
ついつい調子に乗って走りすぎてしまったり
理想に夢中になって自分を忘れたときに起こります。

だからこそ、心が自分に戻って来やすいように
自分にとって喜びや楽しみを与えてくれる
大好きなものごと、場所、瞬間とつながると、ほっとします。

大好きでしあわせになっちゃう大好物を食べる、とか
大好きでたまらない人と時間を忘れておしゃべりする、とか
大好きでうっとりしちゃう場所でゆっくりする、とか
大好きで無条件に微笑んじゃう映画を見る、とか
とっても気持ちの良いマッサージを受ける、とか。

とにかく、そういうことを自分に与えてあげることが大切で
どんな些細なことでも、小さなことでもよくて
むしろ、大掛かりなこと、労力をたくさん必要としなければ
よりいっそう日常に楽しみを取り込むことが出来ます。

これは、日常的に習慣にしておくことが
いつも自分をベストコンディションにしておくために役立つし
なによりも、ものごとを創造するには Joy & Fun が不可欠!

心身の必須ビタミンと思って、ちょこちょこ心がけています。




その2 「何もする元気がないとき」

ちょっとでも動く体力・気力がないほど
エネルギー低下してるとき
忙しすぎて目が回ってしまったり
倒れてしまったりした場合の対処法です。

何をするのもかったるかったり
めんどくさく感じて、気持ちが重くなってしまったり
うつ状態、ショック状態、変化で混乱しているときも
心身にとって緊急の休養が必要な時期なので
時間の流れ方やペース、リズムを
自分以外のものから自分に戻してあげることが大切です。

たとえば、頭ではそう思えなくて
もっともっとやらなきゃ!と焦るのだけど
からだが全然ついてこなくて心身が軋むようなとき
たいていは頭(思考)が何でもコントロールしたがって
自分の許容量を超えた要求を強制してしまったときなどです。

それは、言ってみれば、自分内強制労働!

暴君も自分!奴隷も自分!という
自分内暴力の世界に無意識に突入してしまっても
だれも気がついてあげたり、止めることができません。

だから、炎症や熱を出したり
心や体が起き上がれないほどの状態にして
有無を言わせず自分内暴君から自分を解放しようという
生命の安全システムが作動します。

そんなときは、どんなに大げさだと思っても
自分の緊急事態!と思って、することを最小限にして
ただひたすら体の欲するだけゆっくり眠り
何もしない時間、自分のためだけの時間をとってあげます。

心も体も、頭の中(思考)もからっぽに
外界の情報、刺激をシャットダウン。

なぜなら、自分内の許容量を超えていたり
オーバーワークをしつづけてきた結果なのだから
消化、浄化、回復されるだけのゆとりを
自分に必要なだけ与えてあげることが重要なのです。

少なくとも数日間集中的にそんな時間をとり
自分の回復を信頼して待ってあげます。

その間に、その1でお伝えしたような好きなことや
自分が本当にリラックスできることを徐々にしてあげます。

わたしの場合は、こんこんと眠り続けたのちに
塩や精油を入れたお風呂にゆっくり浸かったり
あたたかいスープや飲み物を飲んだり
こどもの頃に好きだったものに触れてみるうちに
少しずつ芯からゆるんできます。

自分が心地よいと感じることに身を任せながら
自分のリズム、ペース、時間をとりもどしてあげると
自分の心が体に帰って来てくれます。

このプロセスは、自分への暴君ぶりや関係性
そのときどきの状況や環境次第で
必要な分の期間が変動します。
(数週間、数ヶ月、数年となる場合も。大切なことです。)




その3 「じっとしていられないとき」

あれ?なんか自分らしくいられないぞ?と気がついたけど
一瞬たりともどうにもじっとしていられないし
どうしたらいいか全くわからない!という場合の対処法です。

これは、自分のエネルギーが余るほど貯まってるんだけど
それを方向付けられるだけの準備がまだできていないとき
こうなることが多いような気がします。

新しい段階(新学期、新しい環境など)にシフトして
ハイテンションになっていたりする場合のほか
ものすごい怒りで沸騰!爆発!!したときや
嬉しくてハイパーになって浮き足立っちゃったとき(笑)などです。

その場合は、とってもシンプルです。
わたしは無心にお掃除をします。
もしくは、走ったり、踊ったり、とにかく体を動かします。

お風呂やトイレ、台所などの水周りをぴかぴかに磨きこんだり
部屋を片付けたり、模様替えをしたり、要らないものを捨てたり。
体を動かして、物を動かして、空間をきれいにととのえます。

あとは、公園などで疲れてくたくたになるまで走って歩いて走ったり
家の中で音楽をかけて踊り狂ったり。

そうでないと、ハイテンションなまま余計なことをして
後になって「がびーーーん・・・」ということになりかねない(笑)。
(20代はそういう若気の至りだらけ!それはもう、おばかさん!笑)

でも、エネルギーがハイパーなときに
そうやって体を動かしてあげると
エネルギーの走りすぎがスローダウンして体が追いつくと
疲れとともにすっとした爽快感を感じられるのです。

とくに、水周りの掃除のあとのすっきりといったら!
それから、さらにすっきりするべく
シャワーを浴びたり、お風呂に入って
自分の心身まるごとすっきりさっぱりさせてあげます。






どの対処法においても
自分の現状を問題視(敵視)しないで
あたたかく建設的に対処してあげること
それがとっても大切なんだなと感じます。

それぞれの人がそれぞれに
みんな自分らしく居られますように。
(それが、いちばんの豊かさだと思うから。。)



今日も長い文章を最後まで読んでくださり
ありがとうございました!


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2011年2月14日月曜日

楽しくなるってだいじだな

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


楽しくなるってだいじだな、って思う。

思うだけじゃなくて、そう実感。

楽しくないと、なにも生まれない。



何かを生み出すためには、喜びや楽しさが必須だ。

食べ物や栄養もだいじだけど、Joy & Fun はもっと大切。



それなのに、ずーっと

自分が楽しく過ごすこと、楽しそうにしてること

幸せでうきゃー!ってこどもみたいになることを

本当には自分にゆるしてなかったんだなって気がついたから

もうそんな制限はずしちゃった。



ほんとうは、一体どうやって暮らしてるんだか

生計立てて生きているんだかわからない

わけわからないけど何だか楽しそうな

こどもみたいに遊んで暮らしてるような大人になりたかった。



それを望みながら制限して

ブレーキ踏みながらアクセルも踏む

みたいなことしてたから、それはもうやめた!

そんなことしてたら故障しちゃうじゃんかー!って。



だから、わたしは遊んでいるように日々することを楽しんで

生活のこまごまを喜びながら実験して快適にして

大いに自分の人生を謳歌しちゃうことを解禁したのだ!



だから、今夜も大好きなたこ焼きを

お気に入りの新しい鉄板で焼いて夕飯に食べるのだー。


中に入れる具は、たこじゃなくてイカだけど

しかも、白菜にきのこも入れちゃうけど

なんでもありでおいしかったらそれでいいのだ!



楽しいことはだいじだな。。

楽しくなるってだいじだな♪



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2011年1月23日日曜日

夫のぎっくり腰からみつめなおしたこと

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。

東京での仕事(大学の授業)が無事終わり
ホッとしたのもつかの間、
大分で猫のみつと残って留守番としてくれている夫が
出会ってから3度目のぎっくり腰になりました。

正確にはぎっくり腰とは言わないのかもしれませんが、
彼の持病の腰椎ヘルニアの症状が再発しかけた
という状態です。

そんなわけで、予定を繰り上げて急遽帰宅しました。
(予定をキャンセルしてご迷惑をおかけしてしまった
 みなさまには本当に申し訳ありませんでした。。)

わたしにとっては3度目の夫の介護であり
結婚前の家族の介護も入れると
またか・・・となりがちなところですが
何だか今回は観察しどこと満載で興味深いです。

わたし自身も骨折などの怪我をして
介護される立場になったことがあるのですが
介護される側も、する側も
心身ともに快適であるようにすることが
とても大切なんだなぁと改めて実感しています。

体を故障してしまった当事者は
自分を責めたり、状況を責めたりしてしまうと
自分の体を小さく縮めすぎたり、緊張させたりして
過度な負担を自分の心身にかけてしまいがちです。

同時に、ケアをする側も、介護しながら
相手の体勢に自分を合わせて食事をさせてあげたり
体の手当てをしてあげたり、介助をしたり
そのときに自分を屈めてしまいすぎて
体を痛めてしまって疲れさせてしまったり
その結果、心が疲労してしまうことがあったりします。

でも、そんなときにどちらの人にも
アレクサンダー・テクニークを使って欲しいのです。

どんな状況でも、わたしたち一人一人が
身体的にも、精神的にも
存在そのものとしての尊厳を
充分に尊重され、大切にされてよいのですね。

わたしもそのことを以前は知らなくて
介護される側のときも、介護する側のときも
自分を心身ともにいじめながらで毎日きつくて
なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないの?
と思っていました。

でも、アレクサンダー・テクニークを学んで
自分がただここに在るままで
こんなにも尊重されていいのだと
体と意識の拡がる感覚を味わう体験を重ねました。

今、教える側になってみて
以前のわたしに何が起こっていたのか
冷静に、でも温かく見つめられるように
だんだんとなってきています。

その中で、わたしが
アレクサンダー・テクニークを通して
本当に伝えていきたいことは
自分の一生のパートナーである自分自身を
心身ともに手を取り合っていかれるように
それぞれがなっていくことです。

どんなときも、自分を必要以上に責めないこと。
そうしたいときも、自分の体を小さくしなくていいこと。

自分に当たりたいほど辛いときも
それをすることは何の役にも立たないと知っておくこと。

相手や状況を責めたいときこそ
自分の体に戻ってきて、今の自分の体に気づくこと。

自分の体にしっかりと自分がつながって
今この自分と自分の感覚的気づきの体感とともに居られたら
落ち着いて、自分や相手や周りを尊重する余裕を
今までより少しずつ少しずつ持てるようになっていきます。

わたしたちの理想が高すぎて
「正しくあるべき」、「もっとがんばらなくては」、
「~しないと愛されない、充分ではない」と
自分を追い込んで、自分の思考の中の理想と一緒に居て
自分の体という実際の存在を置いてきぼりにすることが
多くの問題を生み出してしまいます。

だからこそ、本当の自分が存在する「我が家」である
自分の肉体に自分の意識を戻してあげたいのです。

そして、体に起こっていることに気がつくことが
「我が家」に明かりを灯すことになります。

今居る自分の「我が家」を愛して
居心地良くしてあげることほど
自分にとって快適なことは無いと思うのです。

だからこそ、自分の体ともっと出会うこと
忘れていたことを思い出したり、知ること
そういったことが大切なのだと思います。

介護をされる人も、する人も
自分の存在を忘れて、大切にしないでいるところから
ほんの少しだけでもいいので自分の体に気づいて
そっとやさしく自分をなでてあげたり
普段気にもかけなかった場所に触れてあげたり
自分のケアをしてあげたら変わるような気がします。

心身の状況が混乱のときこそ
自分の意識を自分に戻して
体にちょっと気づくことだけでも
アレクサンダー・テクニークの
原理をちょこっと使うことになります。

なんだか散らかった内容になってしまいましたが
どうぞ、それぞれの方が自分と仲良く
どんな状況も肯定的に味わいながら
無事に乗り越え、歩めますように。。

長い文章、読んでくださり
ありがとうございました。

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2010年12月4日土曜日

体験から学ぶことは、自分を癒すこと

どこかで自分を責めている自分がいる。
他者という目線が入ると、とたんにその自分が現れる。

いえいえ、わたしはそんな良いものではありません。
いえいえ、わたしはこんなダメなところばっかりなんです。
いえいえ、わたしは何にもできないんです。
いえいえ、わたしはとんでもなく無能なんです。


そうやって挙げ連ねればきりがないほど、
どれだけ自分を貶め、辱め、批判し、強要してきたことだろうか。

それが、過去の記憶に基づく信念体型から
始まってしまっている習慣的&自動的反応パターン。

だんだん、これをやってる最中に
自分でやってることを意識できるようになってきた分
あー、こんなに自分で自分に無能さを強要してたんだ
と気がついてびっくりします。


「今年の汚れ、今年のうちに」って
どこかの洗剤のキャッチコピーじゃないけれど
自分の習慣的パターンも、今そうやってクリーニング中で
新しい自分になる準備をしているんですね。


ほんとに、びっくりするくらい
自分のもう繰り返したくないパターンがデフォルメされて
日常で日々起こっている。

もうイヤー!!!ってならないと
そこから脱するシフトができないから
強烈に自分にショックを与えてくれてる。

もう、ほんと、笑っちゃうくらい。


こないだは、大分の家で
東京に来る前夜食べた水炊きの鍋の残りを出しっぱなしで
そのまま東京に来てしまって腐らせてしまって
当然、夫に電話でめちゃめちゃ怒られてしまった。

それで、あんまりにも自分が情けなくて
ホントだめだなぁとか、どれだけ自分を責めてるか
どれだけ自分を虐げて罰してるか
そんなことに深々と気づいてしまって
そのあまりのインパクトにたくさんの感情が一気に動いて
気がついたらこれでもかと涙が出てきて泣いてました。


リズ・ブルボーの「5つの傷」を読むとわかるのだけど
わたしには「侮辱」の傷があり、自分を侮辱し、相手を不快にさせるような体験を招き
夫には「不正」の傷があり、相手を責め、自分を責めるような体験を招き
そうやってお互いに自分の傷を浮かび上がらせて
それを癒す必要があるんですよと教えあい、学びあっている。


それもわかってきたら、ありがたくて、これまた泣けて
もう色んな思いと感情がごっちゃになって
泣けて泣けて仕方なくて
久々にポロポロ泣いてしまいました。


こういうのも、過去の記憶のクリーニングなんだなぁと
思えるようになってきたのもありがたいこと。。

ホ・オポノポノの考えとしてのクリーニングは
そういう面で、とても理に適っているなと感心しきり。

常に人には救いの道が用意されているのだけど
それを見つけられるよう、目をふさいでいるものをとりのぞく
それがどれだけ大切なことか実感します。


わたしはヒーラーでもなく、セラピストでもなく
(そう感じたり、思ってくださっている方もいらっしゃると思うし
 わたしもそうなりたいと思っていた時期もあるのですが)
アレクサンダー・テクニークを学んできた
ティーチャー(伝え教える人)だから
習慣の認識から誤用をやめて改善していくこと
として認識してしまうのだけど
そのことと自体が生きるうえでの学習であり
自分を癒すことにつながるのだなと感じます。


やっぱり身を持って、痛かったり、ショックも味わいつつ
その経験から実践し、実験し、学んできたことでしか
人に伝えることができないし、説得力をもたないのだと
痛切に感じながら、時間がかかる過程を自分にゆるしています。


同時に、わたしはやっぱり自分を強張らせて
大人のふりをして生きることが出来ない人間だなと
ドロップアウトすることを改めてゆるす許可を出しています。

自分の中に、習慣的に「他の人と同じようであれ」という
社会教育(奴隷教育)が染み付いているので
そのループから抜け落ちないように
社会から「不完全」で「欠陥している」とされないように
自分に強要し、強制しようとするのが
自分のパターンとして強いからです。

だから、何度でも、いつでも、意識的に
それを外していいんだよとじぶんをゆるすことは
大いに必要で、自分に力とバランスを取り戻させることなのです。


自分のどこかで
「わたしには力が無い」
と無力感や失望を感じるとしたら
本心で望まないことを努力するのに
相当のエネルギーが必要で
生きることにもエネルギーが枯渇する事態が発生します。

だからこそ、現代は病気になる人が多い。
それは、病気になる人がおかしいのではなくて
病気にならざるを得ない社会という集合意識があるから。


だから、一生懸命やっていて病気になってしまったら
自分を責めなくてもいいのだと、わたしは伝えたい。

けれども、それは、病気になった社会が悪い
自分以外のものや環境が悪いのだと責めるのも
何の役にも立たないのだ、ということも伝えたい。


責めることは、力を回復する役には立たない。

自分に力(生命力、可能性、バランス、調和)を回復するには
自分を見つめて、習慣的&自動的パターンを知る必要がある。

そこで、役に立っていない、不快を生み出すパターンを見つけ
やめていくと同時に、快を生み出す新しい在り方を身につける。

それを練習していくことでしか、本当の力は回復しないし
時間をかけ、労力をかけて、それをするのがいちばんの近道。


解決方法は、未知に飛び込むことだったり
いちばん不可解なことをうけいれることだったりする。

でも、それが、学ぶということ。

学ぶことは、不可知のカオスに飛び込むことでしか得られない。
そこに飛び込み、混乱と不確かさにまみれて初めて
発見という喜びと、癒しという学習が起こる。


だから、あきらめないで
途方に暮れたときほど、未知に飛び込んでみる。

わけのわからなくなる混乱ほど
コントロールという緊張を手放すいいチャンスはない。

手放した途端、着地してる。


安定するのは、不安定になることをゆるしたときだけ。
不安定をゆるさないかぎり、安定することはありえない。

そう、体の構造も、心も教えてくれてるのを
そろそろ思考もコントロールしたがりをあきらめて
手放してみたらどうなのだろう。


そうやって、それぞれがほどけてくることができたら。。

まずは自分からそれをはじめようと思い、実験しています。


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2010年11月22日月曜日

頭脳を浪費しないで、知性をつかう

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、頭脳を浪費しないで、知性をつかう
という練習をしていました。

というより、結果的にそうなっていたんだなぁ
とさっき気づいて
面白い流れがやってきてるぞ!と
静かに今喜んでいるところです。

なんでそういうことに気がついたのか、というと
思った以上にうまくいく、というのでしょうか
何も思いもしなかったのに流れがスムーズ
という展開がこのところ多いのです。


今までは、思ったようにならなかったりとか
思ったのには足りないけどまぁいいかとか
そういう展開を味わっていました。

頭で予想(心配、不安、期待、予測など)しては
未来をコントロールしようとして
一生懸命がんばっていたんですね。
(まさに、頭脳の浪費。。)

言い換えれば
「~にならないように、これをする」とか
「~は嫌だから、それを避けるためにこうする」とか
行動の動機が否定形から入っていたり
ジャッジ(批判や断定)から始まっていたり
自分の行動の言い訳をしたり
そいういう選択が多かったのです。

それは言ってみれば
かつての周りの大人たちがしていた行動のくせ。
例えば、怒られないように、とか
失敗しないように、とか。

パターン化したその思考と行動が『当然』
と思っている環境に居たので
無意識にわたしもそういう風に
自分を自動的に行動させていました。


でも、それって
自分の使い方の誤ったパターン
誤用なんですね。


望んでいることのために自分を使う
というのが、本来の自分の使い方なら
望んでいないことのために自分を使う
というのは、誤った自分の使い方。

だから、本当は望んでいないことを避ける
ということを動機にすることは
消極的に『望んでいないことを望んでいる』
ということになってしまう。

なぜなら、望んでいることが
『望んでいないことを避けること』であって
その中には望んでいることは一切含まれていない!

むしろ
望んでいないことに一旦出会ってから
それを避ける
ということを望んでいる
というオーダーを
無意識に出してしまっている。

ここは、とんでもなく大きな違い!


と、ものすごいヒントを書いてしまいましたね。

もうここまでで
わたしが何をお伝えしようとしているか
きっとお分かりの方も多いかと思いますが
自分の行動の無意識の動機や
普段何気なく繰り返してる思考のなかに
自分をどう生き、行動するかの手順や
システムとなる信念がプログラミングされていて
それに基づいて自分が自動操縦されています。

だから、自分をどう使っているか
自分全体を総括した使い方を見直すことは
ものすごく大切なことなんですね。


わたしの教えている
アレクサンダー・テクニークは
誤った自分の使い方を気づきとともに認識して
本来の自分の使い方を学習していく方法
なのですが
自分で自分を自在に
気持ちよく使えるように在るために
不要になった古い習慣パターンを脱いで
新たな自分に出会いながら
やさしさをもって自分を育む
可能性のレッスンです。

なのですが、実はよく
アレクサンダー・テクニークは
姿勢や体のことをやるボディワークだよね
とか言われたり
思われたりすることがあるのですが
じつは
体のことだけを取り扱うのではなくて
思い込みの誤用も見つめて
その結果、自分の日常にどう影響するか
動き方や心身の反応パターンなど
多岐にわたって観察し
それを
自分が本当に心地よく
心と体と自分のすべてが機能し
自分のすべてが一心同体で
自分の動きを満喫できるように
そのしくみを学んで
使えるようになる練習をする
というものなのです。

というのも
アレクサンダー・テクニークでは
人間とは、体も意識も感情も
まるごとで機能する有機体
(オーガニックな存在)である
とみなしているから。

なんだか扱っているテーマが
人間の深遠さだったりして
くらくらしてきちゃいますね。。

わたしも、ここまで書いてみて
よくわからなくなってきたので
ちょっとはじめに戻ります(苦笑)。


そんなわけで、冒頭に書いた
「頭脳を浪費しないで、知性をつかう」
というのも
自分の『考える』という行為における
自分の肉体や意識の使い方の
誤用というエネルギーの浪費を改めて
流れるように快適に使えるような
新しい自分の使い方へ切り替える
ということ。

それはどういうことかというと
すでに使い古された中で考えるのではなく
新しい可能性を受け入れる余地をつくって
やってきたインスピレーションや
発見した『!』についていくということ。

それが、わたしたちに与えられている
本来の知性という機能の使い方
なのではないかなと
このところの流れを味わう中で感じました。

これについては
まだまだ味わいながら探求して
もう少し理解が深まるのを温めたいと思います。
(これ以上、知性についての説明が今は出てこないから。)


というわけで
また『!』がたまって流れ出したら
ここに書いてみたいなと思います。

長くなってしまいましたが
読んでくださり感謝です!

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2010年11月12日金曜日

落ち込むときは

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、落とし穴に落ちたみたいに落ち込む瞬間があって
なんだろうこれは?としばらく思っていました。

ふだんは幸せで平穏なときが多いのに、いきなりすとんと来るのです。
そして一瞬「?」に囲まれたら、しばらくどーんと重い気持ちを味わうので
おかしいなー、なんだろうなー、と思っていました。

そうしたら、答えがぽんとやってきました。

なんと、人と比べたり、人の目で自分を見てジャッジしたときに
落とし穴にすとーん!と落ちて、真っ暗闇にはまってしまうんですね。


これは、過去の多くの人がやってきたパターンで
いくらやっても何も役に立つことのない無駄な習慣的くせ。
何度も何度も自分がすり減るほど繰り返してきたから、しみこんでるんですね。

だから、気がついたら
「あ、それは過去のパターン。今はもう選ばないよ。」
と、ノーサンキューでバイバーイ!をしちゃいましょう。

何度でも何度でも落とし穴にはまっても
こちらもしつこく、ノーサンキュー!バイバーイ!を繰り返す!


それを繰り返してるうちに、不思議なことに
落とし穴にはまった「ダメダメな自分」が自分だと思っていたところから
ノーサンキュー!バイバーイ!と言ってる方が自分だと気づき始めます。

気づき始めたら、自分が現実をつくっていけるんだ
組み立てていけるんだと力が戻ってきて元気になってきます。


だれかが繰り返してきたくせを知らず知らずに自分に取り込んで
そのうちに自分と同化させてしまう傾向がわたしたちにはあります。

でも、そのことに気づいて意識的に見つめなおすことで
自分と自分ではないものを見分けて、分別できるようになってきます。

そのことが、本当は「大人の分別」って言われるものなのかもしれない
とハッと気づいたら「分別をもちなさい!」と言われるのも
分別できる大人になることも、ステキなことに思えてきました。


本当の分別って、自分に役立つものや助けてくれるもの
喜びを与えてくれたり、元気にしてくれるものを見分けて
そうじゃないものを取り除いていくことができることかもしれませんね。

以前にアレクサンダー・テクニークの恩師で
ワシントン大学演劇学部アーティスト・イン・レジデンスのキャシー
「大人というのは、自分の選ぶことに責任を持てるということよ」
と言っていたのを思い出します。。


落ち込んだり、元気がなくなっちゃったときこそ
ちょっと立ち止まって、自分が本当に望むものを選びなおしたいですね。。

いつもじゃなくても、ちょっとずつできることから。

不調なときは、自分にやさしく励ましながら
ゆっくりじっくり見守りながらいきましょう:)



キャシーから学んだエッセンスを、ワークショップからお届け!

12/4(土)&1/15(土)10:15~12:45 AT演劇ワークショップ@東京・新宿
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=370

12/18(土)16:05~18:30&1/8(土)13:05~15:20 AT演劇ワークショップ@大分
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=371

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2010年11月11日木曜日

教え子たちのすがたはうつくしい

あたまをほぐすからだのレッスン
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今日は大学(日芸)に洋舞コースの生徒の出ている
実習発表のゲネプロ(舞台リハーサル)を見に行ってきました。


今週の授業でも感じたことなのですが、それぞれの生徒の真摯な姿が
すべて見えていなくても、垣間見えただけでうつくしいのですね。
その人の素が見えてくれば見えてくるほど、向こうから光が漏れてくるように
ひとりひとりの可能性や個性が透けて見えてくる。
その姿が、ほんとうにうつくしいな、と感じるのです。

今日のゲネで踊っていたMさんも、踊ることで可能性の光を見せてくれた。
こんなにも雄弁に大胆に活き活きと全身で語ることができる人だったんだ。。
と、ふだんの物静かな様子とのギャップにわくわくしました。

わたしは大分と東京を行ったりきたりで、東京不在のときも多いので
先週の芸祭(大学祭)を見られなかったり、実習発表の舞台を見逃したり
わたしはもったいないことをしているなぁと実感しました。

やはり、生徒の出ている舞台を見に行くのは、すてきなことですね。
作品の出来を超えて、生徒の真摯に表現する姿はこちらへのエールになっている。
そんな風に感じながら、彼らの演技を贈りもののように受け取れる
今のわたしの仕事は、なんとすばらしい幸せな天職だろうと
ただただその幸運にありがたみと感謝を感じます。


わたしも大学時代に舞台に立っていた頃に
お世話になった学校の先生たちや大人の友人や
バイト先の上司や友だちが見に来てくれて
よく「元気をもらったよ」なんて言われていたけど
今になって、そういうことだったんだなぁと理解できました。

演技の良し悪しは観客の人に大きく影響するのはもちろんだけど
友人や知人たちは、それ以上に演技する一途さに心がつながっていたんですね。
ほんとうに温かい目で見守られていたのだと、今更ながらに気づいて
ありがたかったなぁと拝みたい気持ちになってしまうのでした。

そう考えると、ジャッジや前提となる記憶とマインドで舞台を見るか
それとも、ジャッジも前提もなしに心で舞台を見るか
見る人の意図で作品の見え方や感じ方が全く違ってくるんですね。
(その考えは、舞台だけではなくて、状況や人を見るときにも共通ですね。)


親の欲目ではないけれど、教えているよしみを差し引いても
教え子の踊りっぷりはとてもすてきでした。
彼女の振り付けの作品も飽きずに、惹きこまれて見てしまいました。
ほんとうにダンスの神さまに愛されてるなぁと感じます。

本番も納得のいく演技ができるよう彼女たちがチャレンジを楽めますように!


今後の授業やワークショップでも、生徒それぞれがそんな風に
安心して自分の新しいチャレンジを思い切りできるよう
心身のバックアップをしていきたいなと思っています。

よし、わたしも楽しんでがんばるぞー!
みんな、ありがとー!


大学でやっている内容を、ワークショップでもお届け!

12/4(土)&1/15(土)10:15~12:45 AT演劇ワークショップ@東京・新宿
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=370

12/18(土)16:05~18:30&1/8(土)13:05~15:20 AT演劇ワークショップ@大分
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=371


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2010年11月4日木曜日

食べることから

あたまをほぐすからだのレッスン
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すっかり秋から冬支度へと寒さもしんとしてきましたね。
寒くなると、食べ物もおいしいものが増えてきて
食いしん坊には危険な季節です(笑)。

この夏から、食べることの観察をずっと続けてきて
秋になってきたと同時になんだか食べ過ぎる傾向に傾いてきました。
幸か不幸かありがたいことに、わたしはすぐにお腹まわりの様子でわかるので
これはそろそろ食事制限に気をつけてあげないと調子崩すなぁと実感。

とはいえ、ついちょっとの欲張りが度重なると
自分の消化器のキャパオーバーでお腹に色んなものがたまってしまう。
通りがわるくなって(つまり便秘)、お腹が出っ張って
胃も重くなった分だけお腹の満腹感が鈍くなっていって食べ過ぎる。
そしてまたお腹が詰まってしまうと言う繰り返し。

あー、これをやっているから、色んな弊害が出るんだなと自分実験で観察。
身体にはあんまりありがたくないやり方なので、ほんとはしない方がいいけど
そうなってしまったからには、徹底的にそのしくみを観察するのがわたし流。


それぞれの人によって傾向が違うから、万人向けではないけれど
わたしは少し食べれば充分で、消化機能があんまり強くないタイプは
本当はあんまり食べ過ぎない方がいいし、内臓の反応を見つつ食べた方がいい。

わたしは、砂糖と赤身の動物性たんぱくと脂肪、牛乳の取りすぎで
胃腸がダメージを受けて、調子を崩して寝込んでしまうことがある。
でも、生の野菜や果物を中心に食事をすると体調が回復する。

だから、調子を崩すときは、ジャンクフードやお菓子など
量を食べ過ぎることで、簡単に内蔵機能と自律神経が狂ってしまう。

たとえば・・・
砂糖(白)を食べると、頭痛やむくみ、心身のだるさや重さ
冷えや血行不順、欝になりやすくなったりや不安症などの傾向がでてくる。
生クリームや牛肉、トロなどを食べると、消化不良や下痢、吐き気や頭重
めまいなど、乗り物酔いのような傾向がでてくる。

そんな風にして、わたしの身体には合わないよー、って
身体が一生懸命教えてくれようとしている。
もうこればっかりは体質だから、変えようのないことだし
そこまでの不便は感じていないので、身体に素直になることに。


とはいえ、お付き合いで楽しみがあるときは、食べるし
その分あとで調整すればいい。

だけど、スイッチが入ってバランスを崩し続けちゃうと
あとのリカバリーに時間も労力もかかってしまう。
だから、食べる癖や習慣に気がついているって大事だなと思う。

それに加えて、もっと大事なのは、観察しながら冷ややかにジャッジしないこと。
ただ、温かく見守りながら、子犬をほめてしつけるみたいに大事に扱うこと。
自分を責めちゃうと、ドツボにはまって悪循環ループしかねない!
そこから自分を救うのは、自分から自分への愛しかないなぁと思うし
やり直すチャンスを温かく応援してもらえれば、やる気も出ると言うもの。

先日のNHKアサイチでも、ほめ効果について検証していて
ダイエットがうまく行くのはほめることの効果が大きいと発表してました。


何事も、甘やかすのではなく、愛をもってやさしくしつけて育む
そういうやり方が大切なコツなんだなぁと実感します。

まだまだ書き足りないけれど、今日はこのへんで!
読んでくださりありがとうございました:)


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2010年10月24日日曜日

新しい流れへのシフト

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


この二日ほど、とても興味深い流れの中にいました。

昨日は、満月のせいなのか過去のネガティブ思考&感情をレビューした日。
今日は、自分が「こういうものだ」と思っていた過去の枠から外れた日。


今日は、ただ流れにまかせてついていっただけ。

なのだけど、代々木公園での青空ワークショップに
誰も来ないかと思ったら、ワンちゃん連れで参加してもらえたり(初!嬉!)

どんぐりスタンプラリーに参加できたり
シイの実をたくさん拾えたり(食べられる!滋味豊か!)

それで出会ったカワイイ大学生に誘ってもらって
すてきなピクニックに参加させてもらったり

アースガーデンで欲しかったものが買えたり
大好きな友だちにバッタリ会えたり

自分で許可したことに、現実が連動しだしたり。。。


なんだかほんとに
現実って自分が生み出しているんだなぁって
実感することとなった一日でした。


そして、昨日はほんとに、コントラストくっきり!
光と真っ暗闇くらい全く質の違う一日でした。

このところずっと、しあわせなことがどんどん増えていて
毎日もう、今死んじゃったとしても感謝できるくらい満足で
何しても「ありがたいありがたい」って言うおばあちゃん
みたいな心境&日常だったのです。

でも、昨日、ひっさびさに過去の自分の感情が出てきて
あまりのキツさに絶望感まっしぐらだったのですが、ふと
「うわ~、昔のわたしは毎日こんな状態でいたんだ~!」
と思い出して、その感情と今の日常のギャップにびっくり。

わたしもびっくりしながら
怖がる野生動物が落ち着くのを待つかのように
むかしのわたしを追体験しながら労っていました。


じつは、過去のわたしは
生きて死んでいたような状態。

物心ついた頃から無意識のうちに
環境や色々なまわりの大人たちとの関係の中で
自分をまわりの期待に合わせて行動する道具にして
いい子を演じるほど、いじめや事故、パワハラに遭って
学校でも家でも常に緊張している状態でした。

わたしを愛してくれた人はいたのに、それは部分的で
無意識にそれを感じていたわたしは
まるごと受けとめてもらえない=愛されていないのだと解釈して
孤独感と絶望感と疎外感でいっぱいになっていて
自分で自分を責めて、生き埋めにしていたんですね。

だから、ずっと生きていたくなかったし
死ぬほどの勇気も元気もなくて
自分が消えてなくなればいいのに
と、いつも思っていました。
(う~ん、切ない子どもだ。。)

その反面で
人はほんとうは幸せになるために生まれてきたはずで
どんな最悪に思える状態でも
すべてのバージョンの中で今の「これ」がベストだから
今起こってることが現実になってるんだ
という、根拠ない確信を持っていて
どうしたら生きやすくなるんだろう?
どうしたらしあわせになれるんだろう?
そう疑問を抱いて生きてきました。

だから、そのギャップを埋めるために
いつも空想ばっかりしている子どもでした。


思えば、そんな真っ暗ななかでも希望を持って
空想することと、ものを作ることだけが慰めで
そのおかげで創造性が鍛えられて
思考力と言語化での自己防衛が身について
今のしごとにとても役に立っている。。

つらい中を、喜びも見つけながら
ここまでいのちの無事をつなげてくれた
過去のわたしとすべての体験に
感謝と「愛してるよ、大丈夫」のハグをして
もう怖がらなくてもいいんだよって言ってあげられる。

大人になってみて
こんなに色んなものがゆるせるようになってきたよ
みんなそれぞれの精一杯の中で生きてきて
コミュニケーションがうまく行かなかったけど
そこにはちゃんと愛情ややさしさはあって
それがお互いに気持ちいいように表現できなかったんだよ
だから、もう悲しまなくても
自分やまわりを責めて絶望しなくても大丈夫だよ
ただそう伝えてあげられる。


それまで、どうしていいかわからなくて
そういうネガティブなパターンが出てきたとき
その暗さと重さに慌ててパニックになって
思いっきり感情が乱れて大変でしたが
じつはそれって過去のことなんですよね。

感情や思考は時空を超えてしまうので
過去の体験のものであったとしても
それが出てくると
それは今のことなんだ!と錯覚して
ものすごく不安になってしまう。

不安からまたパニックになって
どうしていいかわからなくてつらすぎて
どう表現していいかわからないまま人に当たってしまう。

それが、自分も、多くの人たちも
過去にずっとやってきて
世代を超えて連鎖してきてしまったパターン。


でも、そんなときに一呼吸して
それは過去のことであると気づいてあげることや
そのパターンをお客さんや子どものように客観視して
何も変えようとか、解決しようとせずに
言い分をひたすら聴くことでケアしてあげる
自分内カウンセリングに充分に時間をとってあげるだけで
変わってくる。。

自分のケアが充分じゃないと人のことができないし
自分のケアが不十分なときほど
自分の話や気持ちをただ受けとめてもらうことが必要。

ほんとうに深く癒すケアって
そういうところから始まるもの。。

そして、じつは
こうしてそれが理解できるようになってきたのも
すべては過去の体験があったおかげ。。。

つまり、それは関わってくれた人すべてのおかげでもある。。
そんな、おかげだなんて思えない奴もいっぱいいるよー!
っていうのも、ないとつまらい人生の景色かもしれない。

だれがいい人で、だれが意地悪だったとか
そんなことはどうでも良くて
物語のキャスティングのように
色んなキャラクターがいなければ
彩りに欠けてしまうのと同じことだったりする。

だから、にくたらしい~!嫌い!って思った相手も
実は、欠けてはいけないキャストだったりする。
わかっても、やっぱり苦手!って思うかもしれないけど(笑)
それは人間だから、その感情もスパイスみたいなもの。
ちょっとは刺激がないとつまらないかもしれない。


自分が本当に変わっていきたいとき
どうしても結果を目的にしがちだけど
結果は結果でしかなくて
ほんとの目的は、自分が自分の歩みを楽しむこと。

たとえば
感謝ができるようになることが大切なんじゃなくて
自然と感謝が湧いてくるようになるまで
自分を深くケアしてあげることが
自分の心のフィルターをお掃除することだし
掃除してきれいになるほど
喜びを見つけやすくなるから大切だということ。

そうやって、ご褒美をもらいながら
人はきっと成長していくんだろうな。
それはほんとに魔法みたいなプロセス。


今日のわたしに起こったことも
昨日のわたしが体験したことをただケアして
傷ついていた過去の自分がホッとできたからかもしれない。

内側からホッとくつろげたら
その分だけ新しい可能性を迎えてあげられる。

落ち着けば落ち着くほど
変化を迎える準備ができてくる。

そうやって、どんどん新陳代謝しながら
新しいおもしろい流れに乗っていけるようになっていく。

絶望のときにも、希望につながる道があるって思いたい。
今これからはそういう時代。

無意識に過去のなかに生きることから
クリエイティブに新しい流れとともに生きることへ。

もう間違いは責めなくていい。
失敗するほど賢くなって歩いていこう。
そんな強さを信じて歩もう。


今日も読んでくださりありがとうございました:)


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2010年10月22日金曜日

自信と気のはなし

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ1日があまりにも濃くて、3日分くらい過ごしている気分です。
というわけで、早寝&昼寝励行して体力温存しています。


さて、そんな体力温存するのにあたって
自分を通して色々観察してみています。

どうなると疲れやすいのか、疲れにくいのか
その傾向と対策といったところでしょうか。

これはきっと固定された正解があるわけでもなくて、
その時々の状態、個々の人によっても違うのだと思いますが・・・。


何をするのでも「やらなきゃいけない」と思うと気持ちが重くなって
自分を動かすのにもたくさんエネルギーが必要なのですが
それとは反対に「やってみたらどうなるんだろう?」と好奇心を持てると
「やってみようかな」⇒「やってみたいな」とやる気が湧いてきて
気持ちが軽くなって、自分を動かすエネルギーも少なくて済みます。

日本語って面白いもので、気の持ちようが気持ちで、
気はchi=エネルギーの流れと訳すことができる。

実体はないんだけど、なんだかそのへんにある感じられるもの=気。

電気、空気、蒸気、気分、雰囲気、景気、気構え、気遣い・・・
日本には気を表現することばがたくさんあって
共通認識としてなんとなく感覚でわかっているものだったりもします。


授業をしていたり、レッスンをしていたりして
「自分に自信がない」とよく聞くことがあります。

わたしもずっとずっと自分に自信がなくて悩んでいたので
そう思ってしまう気持ちにとても共感できるのですが
じつはよくよく考えてみると、じゃあ、自信ってなに?
自信がないって一体なんだろう?と思いました。

今、わたしは自信がないと思うことがとても少なくなってきて
それがなんでかな?と思ったら、そこにヒントがありました。

自信って、自分との信頼関係だ、というのは
以前からず~っと、うすうすわかってはいました。
でも、あたまでの理解で、ことばとして知っているだけだと、
自分と信頼関係があるってどういう状態かわからない。
実際に、その状態を体験してみないと
それがどういうことかわからないんですね。

じゃあ、自分と信頼関係がある状態ってどんなものかというと
ことばで説明すると、疑いがまったく存在しない状態
ということができます。

「えっ?それだけ?」と思われた方も多いかもしれませんが
ほんとうにシンプルなのです。

今、ただここに居る、自分がここに在る。
という、「ただそれだけ」の状態があらわれることなんですね。

「なにも引かない、なにも足さない」という
どこかのお酒メーカーのキャッチコピーみたいですが
まさにそれなんじゃないのかな、と思うのです。


たぶん、それが現れるためには
自分を疑うという、余計なものを省いていくことで
初めて信じるという状態が現れることができるし
信じるという状態そのものが「今ここにあること」という
存在するシンプルさ、佇まいになっていくんだろうなと思います。

そういうわけで、身体の在り方でもあるし
それは同様に気の持ちよう、気の使い方でもあって
茶道のお稽古や太極拳などに共通する
東洋の身体の使い方の「こつ」の部分でもあるなと思うのです。

同時に、舞台に立ったときのピークパフォーマンスのときにあらわれる
すべてと一体になったような、鮮やかで何ともいえない快い感覚や
エネルギーに満ち溢れて穏やかで、何事も可能だと確信している感覚
というのも、ただその一瞬に無心に存在する「わざ」によるものです。

その「こつ」や「わざ」の部分を習得していくレッスンが
アレクサンダー・テクニークで行われていることなんだなと
このごろ改めてわかるようになってきました。


何がそこにあるのか、わたしたちの多くが確証を求めがちですが
本当に大切なものは気持ちのように目に見えなかったり
動きのように捕まえたり固定できないものかもしれません。

自信も同じように、捕まえることも、絶対に固定できるものではなくて
流動的で可変性のあるものだからこそ
捉えようとするほど、捕まえられない、習得できないのかもしれません。

すばしっこい生きものを捕まえるときのように
こちらがリラックスするほど、相手もリラックスして
姿をあらわしてくれるかもしれません。

まずは捕まえようとする前に、仲良くなるところから始めたら
なにが起こってくるのでしょうか。

仲良くなるのには、時間がかかることもあれば
時間がかからないですぐに、ということもあります。
それはきっとお互いが、どれだけリラックスして打ち解けているか
自然体で自分を加工しないでいられているかがカギなのかもしれません。


自信を生み出すには、まず自分と仲良くなることから。
そして、自分がリラックスすることから。

わたしも一緒に、そこからまた始めてみようと思います。
読んでくださり、ありがとうございました。


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2010年10月7日木曜日

やりたいこと(?)がわかってきた(?)

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、わたしが?わたしたちが?やりたいこと
というのか、やるべきこと(方向性?)がわかってきた(?)
そんな気がしてる。 ← でもまだ、キツネにつままれてる気分

気がする、というのは、まだアタマにハテナがついてるから。
だから、キツネにつままれている気分なのだけど。

あ~、それだ~!って浮かんでくるんだけど
その後に、「ほんと?ねぇ、ほんとなの?また変わっちゃわない??」って
アタマがハテナを出してくる。
そんな感じがずっと続いてる。

わたし、というのは、わたし個人なのだけど
わたしたち、というのは、わたしと夫、という共同体のこと。



わたしの夫は、社会的弱者が救われないことに常に憤りを感じてるひと。
今は高齢者と障がい者の暮らしやすい環境づくりの研究をしてる。
こどもと動物にもめっぽう弱い人でもある。(すぐ泣く!愛!)

むかしは、国という大きなシステムに関わる仕事をしてたからか
悪い人(しぶとくて力の強い人たち)がどれだけ悪いか、救いようないか
なんてことをよく知っているらしい。(けど、わたしにはよくわからない。)

繊細で正義感のつよい人だけに、これまできっと大変だったね。。って思う。
そして、今これからは、そこから少しずつでも解放されて
もう少しちがう可能性、風通しのよくなる角度に気づいてくれたらいいな、と思う。

それは彼の学びでもあり、彼の選択。
だんだん、実際そうなってきてるのがすばらしい:)

わたしは、ただ彼が本当に満足してこの一生を送ることを待っているだけ。
期待は手放して、花が咲くのを待つみたいに楽しみにしてるよう。



で、やりたいこと(?)、やるべきこと(?)に話が戻ってくると
どうもこの数日、生まれ育った東京に戻ってきてから
同じようなビジョンが浮き上がってきている。

社会的弱者になりがちだけど、ほんとは可能性に満ちた人たち
たとえば、障がいがあったり、傷つきやすくて引きこもりになっちゃったり
自分に自信を失ってしまっているひとたちや、失業してニートと呼ばれちゃってるひと
いろんな葛藤や症状と闘っているひとたちなど
彼らが自らのチカラで希望と自分の可能性を思い出せるような
そんな場を提供していくこと、そういう安心できる環境をつくること
雇用を生み出せるような人間になること
そういう循環やルートを生み出すこと
そんなビジョンが浮かび上がってきてる。

そんなたいそうな話のものだから、わたしにできるのか!?って
ただただびっくりして、浮ついてないか、一時的な思いつきじゃないか
アタマにハテナがいっぱいになってるんですね。

だって、そこにつながる行動として浮かぶプランが広大すぎる!
しかも、ちゃんと段取り的にこんなこと、あんなこと
って指し示されているような。(むにゃむにゃ)



いやいや、昔の自分のようなひとたち、後の世代に伝えていくことが
わたしにとってとても喜びと責任を感じることだったのは事実だけど
ここにきていきなりそんなにでっかい範囲ってどういうわけ(?)。

そりゃ、ハテナがつくのもあたりまえだわさ。


でも、よーく見てみると、さっき書いた状況のひとたち
わたしが多かれ少なかれ経過してきた過去の自分の状況と同じ。
そして、わたしに与えられた家族の状況にもぴったり通じる。

だから、そういうシチュエーションとキャスティングだったわけね、って
なんか妙に納得するところもあり、途方に暮れるところもあり。


で、ひとまず、抵抗しないで受け取ってみることにした。
なんかしっくりおさまりがいいところもある気がして。



そんなわけで、これから、わたしの仕事での収入の10%は
障がい者支援団体に寄付することにしました。

それから、アレクサンダー・テクニークを使った演劇のワークショップを
大分と東京、機会があれば各地方にも出張してやっていきます。

このワークショップは年齢、経験、その方の状況問わずに
垣根を越えてたくさんの人に参加していただけたらなと思っています。

年に数回、チャリティワークショップを開催して
会場費などの経費を除いた参加費収入を障がい者支援団体に寄付して
「アート(演劇)に参加=社会貢献」という循環を生み出します。

その経験をもとに、演劇と身体(感性)とコミュニケーション
そして、教育(人が育まれること)についてまとめて発信していきます。

アート(演劇活動)と社会貢献を両立できる活動に重きを置くために
アレクサンダー・テクニークを収入を生み出すツールとして活用します。

自分の人生や生活と充分に循環しながら
これらの活動に自分を気持ちよく差し出せるようととのえます。




はぁ、やっと書けた。
書いたら、なんかホッとした。

どんな形になるかわからないけど、ひとまず稽古場に登録申請したこと
チャリティワークショップのための会場を押さえたことから始めました。

これから、寄付する障がい者団体を調べてみます。
どなたかおすすめの団体、心当たりのある団体がありましたら
どうぞ教えてください。


最後まで読んでくださってありがとう :)

オカナオ

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毎日が贈りもの

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、毎日がすてきな贈りものに満ちています。

大分に帰ったときもそうだったし、その前も、その後も!
今朝も、すてきなメッセージ&出会いで目が覚めた!!

すべての道は、贈りもの(ラッキー!たのしい!うれしい!しあわせ!)に通じてる!

ほんとに色々ありがとう!
こんなに色々ありがとう!

みんなにハグして、キスしてまわりたい!
(ほんとにやったらビックリされちゃうから
 心の中だけ!で、笑みになってこぼれる!)

そのくらいしあわせ!

みんなみんなにありがとう!
感謝!謝々 :)


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2010年9月16日木曜日

結果と、今していることと

いや~、そういうことだとは気づいてなかった。
皮がむけるみたいに、つるりと気がついた。


結果って、先に気にしてどうこうしようとする対象じゃなかったんだね。

いや、知ってはいたけど、ほんとには理解できていなかったよ。


今までずーーーーーっと、結果を気にしてやってきたんだなって。
どう思われるかっていうのもそうだし、どうなるかっていうのもそう。

そんなのさ、わからないのに。


ただ、今の自分がどう歩んでいきたいか、どう在りたいか
それがまず先にどーんとあってもいいのでした。

その上で、どう関わったらどんな風に自分が役立てるのか。

喜んでベストを尽くしてもおつりがきちゃうくらいの気取らない心がまえで
ただ、今できることをしてみることを積み重ねるだけ。

それだけでよかったんでした。

とってもシンプル。


シンプルだけど、奥が深い。


そういうふうに居ると、結果なんてどうでもよくなる。

正確に言えば、結果はわたしのしあわせを脅かすものではなくなる。



結果は結果でしかなくて
それは、自分のしあわせとは直接の関係がないのだ。

ただ、自分が結果に依存しているとき、結果に一喜一憂しちゃうんだな。

結果は、自分がしたことの後についてくるもの。
だったら、自分の満足がいくように、納得できるようにやったら
結果はどうであれ、自分はもうすでに満たされているから
やってきた結果をすなおに受けとめられる。


ってことは、それまでわたしがどれだけ
自分の満足のいくように、納得のいくようにベストをつくしてなかったか
ってことになる。

そもそも、ベストを尽くすことそのものが、自分の喜びであればいい。
そういう風にベストを尽くすことが、最善っていうんだな、きっと。


自分に疑いを差し挟むんじゃなくて
ただ、自分のしていることに関心を向けながら励ましつづけること
そうして、今の自分にできることを充分にやったら
それだけでもう気持ちがいい。

それは相手や事象に対してのまなざしでも、きっと同じこと。

どうせやるなら、気持ちがいい方がいいもんね。


その、「快」の感覚ってものすごく重要なものなんだと思う。

次のアクションを起こすためのモチベーション
つまりは、エネルギー源になってくれるものだから。

それが枯渇しちゃうように、もったいぶって嫌々やるから
どんどん自分が小さく消えていっちゃうんだな。


燃え尽きてしまうほどの激しさとか厳しさじゃなくて
自分が「快」な加減での最大限を楽しんでいかれたら
自分もまわりも、みんながハッピーになっていかれる気がする。

それってすごく健康的なことだ。


循環させるって、きっとそういうこと。

そんな風に思う今。
なんか最高にしあわせだな。


気がつけるって、ほんとおくりものだ。
なんだかクリスマスみたい。

そういう大人になるって、たのしいな。

そういうおめでたい大人でいこう。

2010年8月31日火曜日

言葉が体験になって腑に落ちる。

完璧じゃないってことを受け入れるって、そういうことか!

と思ったり

その言葉の意味って、そういうことなのか~!

って腑に落ちることが、ずばばばばとやってくる。



それが面白くて、わたしは生きてるのかも。

それが楽しみたくて、
わからなくなったり、わかったつもりになったり、
色んなことをしてみてるんだな。

自分っていじらしい。



なんか、面白すぎる。

つまらないとか、苦しいのあとには、
必ず腑に落ちるカタルシスが来て
「おもしろい!」が立つ。
いや、まき起こる。

でも、瞬間的、電気的にやってきて
しがみつくとなくなっちゃうし
ついていっちゃうと情報過多でハイパーになっちゃう。

どっちも長続きしないけど、おもしろい。


ほんと、こどもみたい。


ははははは。(←宇野千代風)



でも、これって、役者がせりふとシンクロし始めて
何かがおりてきた!って感覚になるときと一緒かも。

言葉に、血と肉が追いついてくる。
というか、なんというか。

その言葉で、血沸き肉踊っちゃうような感覚。

たのしいな。
たのしいよな。。

そういうのが、くせになるってやつなのかもしれない。