ラベル つぶやき の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル つぶやき の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年10月30日日曜日

I love you:) をいうために



みんな生まれて、今ここに存在してるのは
I love you:) をいうためなんじゃないか

という気がしています。


バシャールが言うには
人間本来の姿は「愛の状態でいること」だそう。

それって、存在そのもの自体が
I love you:)
って自分自身にもまわりにも表現してることかも
って思ったのでした。


赤ちゃんと母乳の話とか、色んな生き物の子育ての話とか
身体のしくみとか、いろんなこと読んだり聴いたりしてて
食べ物が血や肉や骨をつくり、意識とも相互に影響しあってるなら
その存在の発するバイブレーションが
生命の機能や環境に影響するのも
それは当然なのに、目を瞑ってたな、って気づいた。

赤ちゃんがお母さんのお腹にやってくるのも
赤ちゃんからの I love you:) だし
そもそも、その起こりも父母となる男女が
 I love you:) を表現しあったからだし
自分も少なくともたくさんの先祖たちの
色んな I love you:) の結果生まれてきてる。

ってことは、じつはわたしたちの細胞って
無数の I love you:) からできてるんじゃん!
という圧倒的にびっくり仰天な事実に気がついた。

もちろん、途中のだれかが悲しい結果として
生まれ育った歴史もあったかもしれないけど
少なくともそれは先祖全員ではないはずで
やらかしちゃったり色々あったにせよ
よろこびとともに生命をさずかった
ということが多いのだろうと勝手に憶測してる。
だとしたら、どれだけのよろこびや気持ちよさや I love you:) が
わたしの生命の中に注がれてきたのだろうと思う。

これまでの哀しい歴史や想いも
そのよろこびや I love you:) の中で溶かして
わたしの中で消化/昇華していかれたら。

何より次の世代、後の世代へは I love you:) だけを伝えたいから。
うまくいってなかったことは消化して、昇華して
新たな可能性につなげていけたら。

何がどうあるとしても、希望やよろこびとともに居たい。
そうは言っても、実際に子育てしたら
こらー!とかやってるかもしれない(笑)。

でも、そんなときもいつも I love you:) を伝えていられたらいいな。
愛する相手にも、自分にも、出来事にも。

Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年10月29日土曜日

絶賛工事中



なぜにこんなにも書く!な今なのだけど、やっぱり書いています。

たぶん、子ども生まれて来る前の自分一人のうちに
なるべく自分をクリアにしておきたいのが大きいんだろな。 。
なんて、わからないけれど!

というわけで、自分の内側で自分の意識を絶賛工事中です。


さっき、YouTubeでバシャールの「愛の状態でいること」について
説明してるのを見て、ほんとだなぁって思った。

何か理由があって、そのためにそれをするのではなく
そうあるからそうするだけ、という完結性!

期待も目的も理由もいらない。
ただそうする、という選択!

なんてシンプル!

愛されたいから愛するのでもなく
愛したいから愛するのでもなく
ただ愛の状態でいるだけ、という。

それが本来の姿とも。


うーむとうなったよ。
すばらしくシンプルすぎて完璧な説明。
それ以上でも、それ以下でもない、ただの真実。


そういえばいつも、大きな未知の変化がやって来たり
夢が叶っちゃうときって、そこにふっとおさまる自分がいたな。

それまで抵抗してたことをやめて、手放して
自分の居心地を整えて味わい知る時間を満喫して
あ~、しあわせだな、ありがたいな、心地いいな…
ってホッとくつろいでたら
流れのほうから贈りものを運んで来てくれる!

それまでの自分のハッピーエンドであり
新しい自分に出会う冒険のはじまりでもあって。

そうして今度は、新しい世界の渦にのまれて
迷子になったり、混乱したりしながら
手さぐりのなかで新しい居場所を見つけて
また新たに居心地を整えていく。

そのプロセスの精度を、だんだん心地よいものにしていくこと。
そうやって、バランスすることを知り
遊べるようになっていくのかもしれないな。

それについて、もっと自分に自由さをゆるしてもいいんだろな。

こうでなければならないとか、ああすべきとか
そういうのもみんないったん手放して
新しい目で見て始めることができるかもしれない。

そうそう、誰かの目で見るとか、誰かの考え方でどうするかとかも
ほんとは必要なかったり、役にたたないかもしれない。

少なくとも、もしもそれが自分を苦しめるものになっているなら
いったん手放してみてもいいことかもしれないし
一度その実験をしてから見極めてみたらよいことかもしれない。

何がいいか悪いかのかわりに
今の自分にこれは役に立つか立たないか
見直してあげることが、自由へのカギだったりする。

そんな風にして、自分をどんどん解体して
出て来たものを楽しんでいかれたら、きっと愉しい!

そして、その先、いったいどこに行っちゃうんだろう(笑)!!

子どもみたいにすなおに、無邪気に
どんどん変わってくことに興味をもっていたいな、と思います。

Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

くるしみはどこから来るの



安静期間で大人しく過ごしているため
日記をたくさん書いているこのごろです。
え~!まだ書くの~!書きすぎだよ~!
という自分のなかのケンケンごうごうの声にも負けずに
そうよ!とあっけらかんとまた書き出してる自分。

そうかい、そうかい、お腹空いたよ、は身体の声。
でも、胃が疲れてるから、ちょっと食べるの休んでみたら?は、頭の声。

こうして書くと、これだけのことでも、自分のなかにどれだけたくさんの声があるか。

自分がどの声を聴くのか、聴きたいのか、聴きたくないのか
それぞれわかっておくのは大切なんだなって気がしてる。
同時に、そのとき自分のなかにどんな声が存在してるのか
ありのままに知っていてあげるのも大切なこと。

そこにそれ(触れたくないこととか)がある、というだけで
以前はもう「ダメ!」「絶対ムリ!」って即全否定。
存在することすら否定して、よく見もせずジャッジして避けてた。

でも、それが、頭の声から始まったものなのか
身体の声から始まったものなのか、というのでも
きっとまったくようすの違うもの。
まずは、どうなってるかすら、知りもしてない。。

よく知らないのに、よく知らないからこそ
そうやって反応しちゃってた、なんてこともある。
だからきっと、いったん出会ってみるって大事なことだったりもする。

自分を大切にすることってどういうこと?
どうしたらこの苦しさから解放されるの?
っていうのが、わたしの子どもの頃からの疑問だった。

それがこんなに時間をかけてずっと取り組む自分のテーマになるとは。

そうしてわかったこと、まだまだわからないこと、色々あって
でも、気づいてみたら、確実にどんどん楽になってる。
苦しさから解放されてきてる、っていってもいいかも。

ふりかえれば、ずっと楽に生きやすくなってるのに
問題に見えるものにフォーカスしちゃうと
いつでも自分を苦しみの渦中にどぼんと浸らせてしまう。

そのことに気がつけると、溺れてたのが浅瀬だった!なんて気楽になったり
もしくは、わたしってなんてダメなんだ~!って自己嫌悪してみたり
色々なそのときの自分がどうあるかで全然ちがってしまう。

じゃあ、苦しみはどこから来るのかな~、ってぼんやり思ってみたら
どっかから来るんじゃなくて、自分でくっつけちゃってたのか!
と気がついて、ふむふむうなってしまった。

やって来るのはどんなことも、じつはただの出来事で
そこに自分がどんな考えや思いを持ち込むか
どんな風に見るのか、だけなんだなぁって。

その思いが、良かれ悪しかれ、結果として
受け取る感情や感じ方、見えて来るものに反映されて
その後の行動や言葉や思考、信念に影響しちゃう。

そして、それはすべて、自分の未来をつくっちゃってる要素になってる。
自分の未来に責任を持つって、そういうことか!
って、また改めてショックを受ける。

今この瞬間、わたしは何を選び、何を望むのか。
無意識で自動的に習慣のパターンに巻きこまれているのと
それに気がついて、自分に目覚めて見守り、ガイドしてるのとでは
なんとまったくちがう質であり、差の大きなことか。。

何度でも繰り返し忘れては、思い出す。
ショックがないと、変わっていくために歩めない。

くるしみはどこからくるのか?
それは見ないふりしてた自分の過去のパターンから。

痛いけど、めんどくさいけど、触りたくないけど
そこをしっかりお手入れできたら、見違える。
だから自分のお掃除クリーニングするんだよね。。

やる前は気が重い。
でも、やり終えたら、とことん気持ちいい!

気持ちよさのご褒美と、気持ちの重いまんまと
どちらを選ぶか?

未来はえらべる!ってほんとだな。。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年10月28日金曜日

思いつくままに書く


今朝はひんやりしてる。
ちょっと椅子に座ってるだけでお尻が冷えてしまうから
朝ごはん軽く食べて生姜湯飲んだら、布団にまたすべりこむ。

だんだん自分のからだが、赤ちゃんのベッド仕様から
赤ちゃんのごはん仕様に変わっていくんだなぁっていうのが興味深い。

女性のからだは面白くて、やさしく強くうつくしい。
なんてよくできてるんだろうって感嘆してしまう。
自分も女性なのに、まじまじと未知に触れるように観察してしまう。
女性のからだに生まれたのは、それを観察体験するためなんじゃないかと思うほど
わたしは自分をふくめ、女性の神秘性にわくわくする。

同様に、男性のからだも未知ですばらしい。
ちゃんと女性と和合できるようにできていることも
女性とはまったくちがう生理や機能が働くようになってることも
かたちや質のちがいもなんてよくできているのだろうと感心する。

からだって本当にアートだなって思う。
文句なく、すばらしい。

それなのに、どうしてそのことをいつも忘れて
自分を大切にすることや、からだと一緒に居ることを
置き去りにしたり、自分から取り上げてしまうのだろう。

もっと味わい、自分のからだを受けいれることを体験したい。
自分全体が溶け合うほどのよろこびはないから。

そこからものごとをはじめられたときの
あの圧倒的な鮮やかさで世界を生きたい
自分の生を生きたい。

からだに宿り、自分が生まれたのは
何よりもそのためなんじゃないかと感じる。

もっと深く、もっと純粋に、そう生きられたら。

わたしがわたしであることの理由のひとつは
そんなところにある気がしてる。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年9月22日木曜日

秋の夜長に...


カラダとなかよく きもちよくSudio Saltia*の オカナオです。

大きな台風や大雨に翻弄される夏の終わりでしたが
みなさんそれぞれにいかがお過ごしですか?

各地でそれぞれに色々な体験をなさったと思いますし
各地のみなさんのご無事を願わずには居られません。

ここ大分では、台風が去ってから、すっかり秋に。
日差しがあると暑いのに、日が落ちると肌寒いです。

こんな時期は、体が季節の変化にまいってしまうので
あたたかいお風呂に入ったり、温かいものを口にするよう
なるべく心がけながら、体と対話をしてみます。

毎日やることがあって忙しいと、体はいつも後回し。
それがつづくと、がまんしていた体が悲鳴をあげてしまいます。

だから、ふっと目線を上げてみたり
体のそれぞれの場所が今どこにあるかに気づき直したり
ほっと呼吸をゆるめてゆっくりにしてみたり
そんな工夫をしてみます。

体に意識をかたむけたり、体と対話をすることを
体の問題にフォーカスすることばかりにしてしまうのではなく
体のここちよさや気持ちよさを味わったり
やさしく見守り、面白がることにしていかれたら。

日々の暮らしの中で、そんな視点を自分に取り入れて
自分の体と仲良くなって、慈しむことができたらな
と思う秋の夜長です。

以下、開催中止になりました。(2011.10/7)
『気持ちよく踊るための ボディマップとアレクサンダーテクニーク』
10/1、10/22、11/19、12/3、12/17 土曜日13:00~17:00
ワークショップ参加者募集中
http://www.saltia.jp/workshop.htm#tokyo


『 wish シェアリング』 ワークショップ参加者募集中
9/29、10/19、11/2、11/16、11/30、12/14 水曜日19:00~21:00
http://www.saltia.jp/space.htm#ws

Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年8月20日土曜日

カメ ⇔ ガメラ

自分とつながるSudio Saltia*の オカナオです。

しばらくPC酔いして、見られない、触れない、という時期がつづいて
2ヶ月半ほど何も書けないでいましたが、ようやく復活。。

夏の蒸し暑さと気圧の不安定さに参ってしまう わたしには
熱を発するPC作業も、体にも、夏休みが必要だったようです。


さて、今日はブログを再開するきっかけとなった
眼からウロコな新たな発見、体験について書きたいと思います。


今日のこの再開のきっかけ、じつは「怒り」のエネルギーなのですが
何度体験してもほんとうに、純粋な「怒り」のもつチカラって
すごく創造的で爆発的にパワフルで、まさに蒸気そのもの!

水が蒸気になるときに約1700~1800倍になると言われていますが
(気圧によってもその倍率が変わると言われていますが)
人間も、「何かしてやるぞ!」と活動的になるときって
「怒り」だったり「ショック」だったりの負荷(ストレス)が
平常時の意識や体の状態やパターンに揺さぶりをかけて
アドレナリンや色んなホルモンを誘発させ
今までのパターンを大きく飛び出すことで能力を爆発させて
火事場の馬鹿力だったり、瞬発力や天才的能力を発揮させるんですね。

そんなわけで、今日はひさびさにびっくりして
純粋な「怒り」のエネルギーに感電したようになって
ふだんカメのようだったのが、ガメラのように「うおー!」となり
そのついでなのか、気づきと発見の連鎖。

そんなわけで、こりゃ、書かなきゃやってられんわい!と
ブログ再開にいたったわけです(笑)。


まぁ、そこまではもういいとして、じゃあなんで怒ったのか。

それは、自分でもわかっていて何度も反省したり嫌悪してるけど
なかなか変化(傍目から見て)できなかったり、改善できてない痛いところを
「お前、全然わかってねーだろー」としつこくつつかれたから!
(うぎゃー!いや~ん!苦笑)

で、これをふだんは、「なんでそんなこと言うの!ひどい!きー!!」
って怒って、相手のせいにして反発してるのが今までのパターン。
(それを相手にぶつけるにしろ、自分ひとりでイライラするにしろ。)

今回はそれが、「あー、来たな。わたしが自分や他人にやってきたことだ~」
って瞬時に思って、でも自分でそれが意識にのぼっては自覚できていなくて
まずは自分が怒ってることを表現して「むむむっ」とお互い距離を置いて
頭を冷やして、起こった出来事を観察する時間をとりました。


それで、一人になって、まず湧きあがってくる感情をそのままにして
何が起こってるのかな?と自分の中や観察したことをゆっくりながめて
そのまま何かしようとしないで放置しておいたら
「あ、なんだ、そういうことなのか」ってわかってくることがやってきて
そしたら意識(思考)はだんだん落ち着いてくるんだけれど
体と感情はまだ何となく落ち着かないまま。

なぜなら、ほんとは認めたくなくて、許せないで来た自分の一面を
相手からずばーん!どうだ!ってやられることで見せられたから。

つまりは、相手を許せない!って思うこと、イコール
自分の中にあるそういう一面を許せない!っていうこと。
(逆もまたその通り・・・ひえ~~!)

そういうことを読んで知ってはいたけれど
久々に血が逆流するんじゃないか、という怒りとショックで
こんな風に体験させられるのはキョーレツ。。

それで、もうこんなことあんまり繰り返したくないよー
とばかりに、宿題を仕方なくやる子どものように
「相手の見せてくれたのは自分の姿、相手を許すことは自分を許すこと」
と思ってはみるんだけれど、何かが引っかかる。


それでまた、場所を変え、お気に入りの場所でお茶をしながら
心と体がまぁるく和らぐまで待ってみることにしました。

そうして、お茶をしながらゆっくり思いを文字にしてみたりしてみると
自分が問題だと思っていたことは、自分の外にあるんじゃなくて
自分の内側にあるんんだな、ということに気がついてきて
じゃあ、自分が見ていた相手への見方が違ってみてもいいのかもしれない
わたしはどうしたいんだろう?なにを大切にしたいんだろう?
という視点に移動できたら、ふっとゆるんで、チカラが抜けました。

問題を力づくで解決しようとする=自分の理想にこだわることから
まずはいったん、内側からゆるんでうけとめてみることへ。

変化というのは、本来は外側によってなされることではなくて
内側からみずから起こってくることでなされるものだと
はっとするほど鮮やかに気がつかされた瞬間でした。

そうすると、問題を解決しようとすることに使っていたエネルギーが
自分のねがいを創造する方向性へと向かっていくのがわかって
体と心が整って融和していくのを感じられてきて
ほわわとしあわせな気分になりました。

帰り道、歩きながらぼんやりと
そこに起こった出来事や問題は自分の外側にあるのではなく
自分のうちにあるもので、自分の臨み方がカギなんだ
ということに、「やっぱりな~。そうですか~」と降参。


そうしたら、またダメ押しで発見がもうひとつ。

相手にわかってもらいたい、相手はわかってくれているはず
しかも、それが当然の前提になっているという無意識の期待や思い込みが
問題となる出来事を引き起こしていたんだなっていうことに。

自分ですら、完璧に自分のことをわかってなんかいないというのに
相手に自分をわかってもらおう、わかっていてくれてるはず
なんて思うのは、なんと過大すぎる期待であったことか!(笑)

自分が自分のことがわかってないなら
相手がわたしのことをわかってくれてなくても、なんだ、いーじゃん!
ってフラットに思えたら、すーごく楽に。

もう起こった出来事を否定しないで、受け止めよう
と大人しく納得しました(汗)。
(そして、くたくた・・・。笑)


と、これを書いたら、ガメラもカメに戻れました。
やっぱり書いてエネルギーを放散することは大切ですね(笑)。

エネルギー(感情と爆発的体内反応など)の純化と意識のクリアリング
それに心身の統合の大切さ、改めて思い知らされました。

最後まで長いシェアを読んでくださり、感謝です☆


あー、つぎはホームページの更新だ~↓ ちいさくがんばります(汗)

Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年5月31日火曜日

YES と NO と シンプル化

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


先日、気づいたことをシェアさせていただきます^^


自分の中でのもやもやが、どうにも渦巻いてしまって
そこから出られない時期が少し前にありました。

思考が混乱すると、生命力も低下してしまうんですね。

自分で自分の本音が見えなくなってしまって
外側の意見ばかり聴いて判断していると
身体も感情もちゃんとサインを出してくれます。

今回わたしは、身体が動かない、何もできない!という
完全にバッテリー切れ状態になりました。



人間は生きものなんだけれど、ロボットみたいなんですね。
電気で動いているみたいに、わかりやすい。
内的抵抗が大きいとショートして、消耗や故障をしてしまう。

イヤだなと感じること、苦手なこと、本来の自分と離れてること
そういうことをするたびに、バッテリーはどんどん減っていく。

そのかわり、大好きなこと、ご機嫌になれちゃうこと、得意なことなど
自分にとって「快」が生み出されるたびに、バッテリーが増えていく。



じゃあ、好きなことだけやって
イヤなことみんなやめたらいいじゃない!

ほんとうは、そうなんです。
シンプルにそうした方がいい、断然。


でも、そしたら、なぜそれができないのか、というと
自分の頭の中の「常識」になってる『考え』が
自分がシンプルに生きるのを邪魔してしまうんですね。

つまりは、自分の人生やできごとを複雑化しちゃう。


だから、好きなことをする!自分の心に従って生きる!って決めても
自分の頭の中を大掃除しないことには、好きなことも苦行になっちゃう。

なぜなら、どんなときも頭の中で
「みんな苦労してるのに、わたしだけこんなことしてていいんだろうか」
「こんなことしてたら、他の人とうまくやっていけないに違いない」
「わたしばかり好きなことして幸せになったら、何て言われるだろう」
などなど、真面目で心やさしい人ほど自分を責めてしまうのですね。
(それはまさしく、わたしのことです。笑)

それで、周りの声、社会の声、常識だと思っているものに振り回されて
自分にとって大切なことや、何がYESで、何がNOなのか
自分の本音がわからなくなって混乱してしまう。

そうすると、身も心もちいさく縮こまっていってしまう。



そうすると、ここで感情と身体によるレスキュー出動です。

混乱した自分を助けようと
自分自身の本音を聴きやすいように
苦痛を通して警報を鳴らしてくれるんですね。

痛みや苦しさ、心身の病気や故障などを通して。

はじめは、小さく。
気づかなければ、どんどん大きく。


それで、本音と離れたところに迷走しそうになると
あなたの本音はここに居るんだよ、こっちだよ、気づいてよ!
とばかりに、我に帰るよう引き止めてくれます。

つまり、登校拒否とか出社拒否をはじめ
心身の不調は、自分の頭のすすめたがる方向性にNOを言ってくれる知恵。


そのメッセージを聴ける自分になることが、
気づきや悟りと言われるのかな、なんて思ってしまうくらい
本音にすなおになるって、ほんとうに腑に落ちる体感をともなう。

なぜなら、『常識』や『世間』を超えて感性をクリアになるほど
本音の自分の声を聴いて、寄り添うことが、すとんと簡単になるから。


わたしも、頭の「よかれ」と思う方向性と
本音の「YES」という方向性が離れてしまったがために
アクセルにブレーキを踏んだ状態でエンジン空回り⇒バッテリー切れ⇒エンスト
ということになりました。

だから、自分の中で感じていること総点検して
YESとNOとを整理して、どうしたいのかを調べています。


混乱しすぎて生命力が落ちてると、整理するのもままならないので
そのときは応急処置的に、自分に大好き三昧をさせてあげる。
(そのあたりについては、こちらをご参照ください。)


そうやって、生命力を取り戻したら
何を感じてるのかを手がかりに「YES」と「NO」の分別作業。

「こうしたらいけないんじゃないか」とか
自分内ジャッジ(外側の声に思えるものも含め)は置いておいて
周りにドン引きされても、反対されたり非難されても
自分にとってどうしようもなく「YES」なことは曲げる必要がなくて
まずそれを相手に伝える前に、自分が認めて受け入れてあげる。

だれかさんの期待に応えることが重要なことだと思ってきた人には
ちょっとばかり大変な作業になるかもしれませんが
(そういうわたしが、↑そうだったので、色んな助けを借りました)
自分の内側で感じていることを認めてあげるのにも
自分内検閲を相手の目でしてしまうことから解放してあげること。
(それがいちばん助けになる、大切な熟成プロセスだと感じています。)


そうやって、自分で自分の感じていることを認めてあげる
受け入れて居場所を与えてあげればあげるほど
駄々をこねてやっかいな気のしていたものが、すっと変わっていく。

化け物になっちゃっていたのが、もとの姿にもどっていく。
そうすると、そこで気づけたことが、自分を助けてくれる。

助けてくれると、本当に自分が統合された状態で表現できる。

「NO」を言うことが、何かを否定したり拒絶したりすることではなく
「NO」を言うときも、その向こうにある「YES」を伝えることになっていく。


わたしも、これについては、まだまだ探求を深めているところなので
「NO」を言うことが、否定や拒否になってしまっていることがあるなと感じます。

そんなときは、自分の感じていることにまだ混乱があって
よりそこを深く掘り下げていく必要があるときなのだなと思えるようになりました。

だから、誰がわるいのか、何がわるいのか、という
犯人探しをして、自分で自分をイヤな気分にしなくていいんだ!
と、ようやく気づけるようになりました。

これは、ほんとうに大きなおくりものです。



自分にすなおに生きるには
どれだけのカギをかけて締め出してるんだろう
そんな風に気づくのだけれど
気づけたからこそ、開けてあげられる。

だからこそ、わるものはどこにもいなくって
混乱と無知があっただけで、そこをお手入れしてあげたらいいだけのこと。


人のお世話を焼く前に、まず自分のお世話を大切に。

そうして、自分が快であること。

ピースフルで喜びと遊びに満ちて、自分の動きをはじめること。



シンプルでわくわくすること、に大きなYESを :)



Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年5月6日金曜日

靴下いないいないばぁ騒動

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


久々のブログ更新となってしまいました。

とはいえ、ネタはたくさん。
書きたいことが追いつかない!


先日まで東京と札幌に行ってきました。

この数日、帰宅後の片付けや洗濯などの家事を
愉しみつつこなしていたのですが
今朝にかけてやらかしました!

靴下いないいないばぁ騒動を・・・。


札幌からの帰り道で
福岡での空港からバスまでの移動が大変かも
ということで、荷物を送ることに。

ちなみに、わたしはいつも大荷物で大移動です。。

というわけで、ご多分に漏れず
今回も大きなトランクぎゅうぎゅう詰め
もう一箱もおまけして二個口でゆうパックへ。


帰宅した二日後に受け取った荷物を
開いて整理してみたり、そのままにしたり
家事と並行して、ゆっくり片付けていたら
開けるの楽しみにしてた未開封の絹の靴下たちがない??

あれれ?あるはずなんだけどな?
それだけないって、どういうことかな??
わたし、入れ忘れたのかな??
あれれれれ??

と、頭はハテナマークでいっぱいに。

その傍らから
「もしかして、とられちゃったんじゃないの~?」
という疑いの声が・・・。

いやいや、そんなことはないでしょう
だって、他の買ったばかりのものは何もなくなってないし
靴下だけなくなるってことはないはず。。

「いや~、それはどうかな~?」

という脳内やりとり。


もうここで、わたしの中のハテナマークは
疑念マークになってしまって
どこかにみつかるはず・・・という視点は
なくなって見つからない!という疑いの視点に。

すっかり脳内では、ゆうパック盗難事件になっちゃってるorz


もうそうなったら、「ない!ない!ない!」の大騒動。

夫はまだ札幌滞在中だったので
家にはわたし&猫のみつさんだけ。

ひとりで大騒ぎして、ツイッターでも「みつからない~」とつぶやく。


すっかり疑念とショックでいっぱいになりつつ
そんなことない、きっと何かの間違いだ、という良心もありつつ
今朝になり、片づけを再開したら・・・

なななーんと、ありました。。。。

洋服と一緒にパッキングしたたたんだ布バッグの中にしっかりと・・・。


見つかって、安堵と同時にやっちまった!感がいっぱい。。
あ~、またないない騒動してしまった。。

靴下にしてみれば、いないいないばぁ。

でも、わたしにしたら、大騒動。
夫が居て巻き込んでいたら、かなりの呆れ顔のはず。

いつもこうやって、わたしは人を巻き込んで
小さなことを問題にして何かのせいにして大騒ぎしていたんだなぁと
自分の身につけてきた悪癖にしっかり気づかされました。


もしかして、これがアレルギーってことなのかも
とか思ったりして、ふむふむ納得。

そして、やらかしてしまった自分に対して、以前なら
墓穴を掘ったんだから生き埋めされなさいよ!とばかりに
自分をとことんまで責めたてては、打ちひしがれていたな
ということに気づいて
あ~、わたしも成長したもんだ、という発見まで。

そう気がついたら、それを言いか悪いかで自分内裁判&処刑したり
そのことから生じる感情に全エネルギーを注がなくていいのだと
やっとわかったんだなぁ、わたし!と、はっ&ほっとしました。


自分の中で色々な感情を生じさせて
あぁでもない、こうでもないってしてることって
家庭内のもめごとや痴話げんかみたいなものだなって
気がついたら、あ~、なるほどなって。

それが、自分内暴力やDVになってたら
そういうことがおこっているのだとまず認めてあげて
どんな誤解がそこにあるかよく見てあげることが大切で。。

習慣化されたパターンを繰り返す必要がないことや
それを責めたりさげすむ必要もなくて
ただ、それをやめていくための温かな励ましと見守り
そして、自分で気づけることと違う選択をできると気づくこと。

だた、それをシンプルにくりかえすだけで
本当は物事がずっとらくにできるようになる。


ずっとずっとそういう風に居られるようになりたくて
でもなれなくて、ずいぶん苦しい思いもしてきてたけれど
今はそれが全く別次元のようにも感じられる。

ずいぶん遠い道のりをやってきたんだなぁ、わたし。
と、ひと騒動した自分を忘れて、すっかり感心するのでした。



今日の学び。
自己嫌悪するかわりに、自己充足できるようにもなれる。

そのプロセスから生まれる苦しみは
ご褒美をおいしく味わい満喫するための演出:)



Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年3月26日土曜日

身からでることば

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。

なぜだかいつの間にか
ついこの間まで、ずっと
文章を書けなくなっていた。

自分の中で、ことばが
ことばを生み出すからだとのつながりが
ちぎれてしまっていたような
こんがらがっていたような
そんな気がする。

ここ数日、ぽつりぽつりと
日記を書き始めていた。

そうする気はなかったのだけれど
なぜかなんとなく、書き始めた。

書く気はのらないけど
書かざるを得ない何かがあって
なんとなく書いてみた。

書くという動作が
少しずつからだに戻ってきたら
だんだんと自分のことばの感覚も
自分のからだにもどってきた。

わたしのことばは
身からでたことば。

そうでないことばは
わたしのことばではない
だれかのことば、よそごとのことば。

身からでたことばじゃないと
書くことがむずかしい。
書かれたことばはむずかしい。

頭で書くのはかんたんだけど
それじゃなにも伝わらない。

伝わらないことを
わたしはしたいのではない。

わたしは伝わっていく何かを
ことばを、からだを
この身を通してしたいのだ。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年3月25日金曜日

すなおにあること

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


何にもしたくない とか

何かをしたくてたまらない とか

何にも言われたくない とか

何か言ってほしい とか


ただそういう想いをもつこと そのものが

わがままなことだ と自分を責める自分が居たけど

そんなことはなくて

ただ すなおに 感じたままに自分が居てもいいのだと

なんとなくすこし わかってきた気がする



あるがまま 感じたままの自分を ゆるす

その過程のすべてが 今のわたしには とても必要



加工してしまわない

切り刻んで 継ぎ接ぎして ごまかさない

つじつまを無理やり合わせない

ただ あるがままをすなおに

自分にゆるしてあげること


すべては そこから


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年2月15日火曜日

こころ(自分)とからだが離れてしまっていると感じたときは

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


先日、大学の生徒から質問メールをもらいました。
(こういうのも、ほんとにうれしい贈りものです^^)


「こころ(自分)とからだが離れてしまっていると感じたときは、
 どう対処していけばいいのでしょうか?」

という大切な質問。


これは、日常の忙しさにかまけて
ついつい見逃してしまったり
無視してしまいがちなところなんですが
ほんとうに根本的に大切なところなのです。。

感性をつかって表現し、創造する人ほど
心身に対しての感度はクリアな方がいいし
メンテナンスやケア(お手入れ)の仕方を知っていることが
どれだけ重要なことでしょうか。。。

どんな仕事、立場、役割、年齢、性別であれ
感性が豊かで細やかに味わえる人ほど
ここを大切にしてもらえたら
それぞれのひとがやさしく居られるような気がします。



では、どうしたらいいのでしょう。
わたしの場合の対処法3つのケースを書いてみたいと思います。




その1 「ちょこっと自分内にズレを感じたとき」

ふと気づいたときに
あれ?なんかおかしいぞ?快適じゃないぞ?と感じて
自分の気持ちや身体にもどってみようかな
という場合の対処法です。

そんなときは、調子が良かった状態のまま
ついつい調子に乗って走りすぎてしまったり
理想に夢中になって自分を忘れたときに起こります。

だからこそ、心が自分に戻って来やすいように
自分にとって喜びや楽しみを与えてくれる
大好きなものごと、場所、瞬間とつながると、ほっとします。

大好きでしあわせになっちゃう大好物を食べる、とか
大好きでたまらない人と時間を忘れておしゃべりする、とか
大好きでうっとりしちゃう場所でゆっくりする、とか
大好きで無条件に微笑んじゃう映画を見る、とか
とっても気持ちの良いマッサージを受ける、とか。

とにかく、そういうことを自分に与えてあげることが大切で
どんな些細なことでも、小さなことでもよくて
むしろ、大掛かりなこと、労力をたくさん必要としなければ
よりいっそう日常に楽しみを取り込むことが出来ます。

これは、日常的に習慣にしておくことが
いつも自分をベストコンディションにしておくために役立つし
なによりも、ものごとを創造するには Joy & Fun が不可欠!

心身の必須ビタミンと思って、ちょこちょこ心がけています。




その2 「何もする元気がないとき」

ちょっとでも動く体力・気力がないほど
エネルギー低下してるとき
忙しすぎて目が回ってしまったり
倒れてしまったりした場合の対処法です。

何をするのもかったるかったり
めんどくさく感じて、気持ちが重くなってしまったり
うつ状態、ショック状態、変化で混乱しているときも
心身にとって緊急の休養が必要な時期なので
時間の流れ方やペース、リズムを
自分以外のものから自分に戻してあげることが大切です。

たとえば、頭ではそう思えなくて
もっともっとやらなきゃ!と焦るのだけど
からだが全然ついてこなくて心身が軋むようなとき
たいていは頭(思考)が何でもコントロールしたがって
自分の許容量を超えた要求を強制してしまったときなどです。

それは、言ってみれば、自分内強制労働!

暴君も自分!奴隷も自分!という
自分内暴力の世界に無意識に突入してしまっても
だれも気がついてあげたり、止めることができません。

だから、炎症や熱を出したり
心や体が起き上がれないほどの状態にして
有無を言わせず自分内暴君から自分を解放しようという
生命の安全システムが作動します。

そんなときは、どんなに大げさだと思っても
自分の緊急事態!と思って、することを最小限にして
ただひたすら体の欲するだけゆっくり眠り
何もしない時間、自分のためだけの時間をとってあげます。

心も体も、頭の中(思考)もからっぽに
外界の情報、刺激をシャットダウン。

なぜなら、自分内の許容量を超えていたり
オーバーワークをしつづけてきた結果なのだから
消化、浄化、回復されるだけのゆとりを
自分に必要なだけ与えてあげることが重要なのです。

少なくとも数日間集中的にそんな時間をとり
自分の回復を信頼して待ってあげます。

その間に、その1でお伝えしたような好きなことや
自分が本当にリラックスできることを徐々にしてあげます。

わたしの場合は、こんこんと眠り続けたのちに
塩や精油を入れたお風呂にゆっくり浸かったり
あたたかいスープや飲み物を飲んだり
こどもの頃に好きだったものに触れてみるうちに
少しずつ芯からゆるんできます。

自分が心地よいと感じることに身を任せながら
自分のリズム、ペース、時間をとりもどしてあげると
自分の心が体に帰って来てくれます。

このプロセスは、自分への暴君ぶりや関係性
そのときどきの状況や環境次第で
必要な分の期間が変動します。
(数週間、数ヶ月、数年となる場合も。大切なことです。)




その3 「じっとしていられないとき」

あれ?なんか自分らしくいられないぞ?と気がついたけど
一瞬たりともどうにもじっとしていられないし
どうしたらいいか全くわからない!という場合の対処法です。

これは、自分のエネルギーが余るほど貯まってるんだけど
それを方向付けられるだけの準備がまだできていないとき
こうなることが多いような気がします。

新しい段階(新学期、新しい環境など)にシフトして
ハイテンションになっていたりする場合のほか
ものすごい怒りで沸騰!爆発!!したときや
嬉しくてハイパーになって浮き足立っちゃったとき(笑)などです。

その場合は、とってもシンプルです。
わたしは無心にお掃除をします。
もしくは、走ったり、踊ったり、とにかく体を動かします。

お風呂やトイレ、台所などの水周りをぴかぴかに磨きこんだり
部屋を片付けたり、模様替えをしたり、要らないものを捨てたり。
体を動かして、物を動かして、空間をきれいにととのえます。

あとは、公園などで疲れてくたくたになるまで走って歩いて走ったり
家の中で音楽をかけて踊り狂ったり。

そうでないと、ハイテンションなまま余計なことをして
後になって「がびーーーん・・・」ということになりかねない(笑)。
(20代はそういう若気の至りだらけ!それはもう、おばかさん!笑)

でも、エネルギーがハイパーなときに
そうやって体を動かしてあげると
エネルギーの走りすぎがスローダウンして体が追いつくと
疲れとともにすっとした爽快感を感じられるのです。

とくに、水周りの掃除のあとのすっきりといったら!
それから、さらにすっきりするべく
シャワーを浴びたり、お風呂に入って
自分の心身まるごとすっきりさっぱりさせてあげます。






どの対処法においても
自分の現状を問題視(敵視)しないで
あたたかく建設的に対処してあげること
それがとっても大切なんだなと感じます。

それぞれの人がそれぞれに
みんな自分らしく居られますように。
(それが、いちばんの豊かさだと思うから。。)



今日も長い文章を最後まで読んでくださり
ありがとうございました!


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年2月14日月曜日

楽しくなるってだいじだな

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


楽しくなるってだいじだな、って思う。

思うだけじゃなくて、そう実感。

楽しくないと、なにも生まれない。



何かを生み出すためには、喜びや楽しさが必須だ。

食べ物や栄養もだいじだけど、Joy & Fun はもっと大切。



それなのに、ずーっと

自分が楽しく過ごすこと、楽しそうにしてること

幸せでうきゃー!ってこどもみたいになることを

本当には自分にゆるしてなかったんだなって気がついたから

もうそんな制限はずしちゃった。



ほんとうは、一体どうやって暮らしてるんだか

生計立てて生きているんだかわからない

わけわからないけど何だか楽しそうな

こどもみたいに遊んで暮らしてるような大人になりたかった。



それを望みながら制限して

ブレーキ踏みながらアクセルも踏む

みたいなことしてたから、それはもうやめた!

そんなことしてたら故障しちゃうじゃんかー!って。



だから、わたしは遊んでいるように日々することを楽しんで

生活のこまごまを喜びながら実験して快適にして

大いに自分の人生を謳歌しちゃうことを解禁したのだ!



だから、今夜も大好きなたこ焼きを

お気に入りの新しい鉄板で焼いて夕飯に食べるのだー。


中に入れる具は、たこじゃなくてイカだけど

しかも、白菜にきのこも入れちゃうけど

なんでもありでおいしかったらそれでいいのだ!



楽しいことはだいじだな。。

楽しくなるってだいじだな♪



Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2011年1月23日日曜日

夫のぎっくり腰からみつめなおしたこと

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。

東京での仕事(大学の授業)が無事終わり
ホッとしたのもつかの間、
大分で猫のみつと残って留守番としてくれている夫が
出会ってから3度目のぎっくり腰になりました。

正確にはぎっくり腰とは言わないのかもしれませんが、
彼の持病の腰椎ヘルニアの症状が再発しかけた
という状態です。

そんなわけで、予定を繰り上げて急遽帰宅しました。
(予定をキャンセルしてご迷惑をおかけしてしまった
 みなさまには本当に申し訳ありませんでした。。)

わたしにとっては3度目の夫の介護であり
結婚前の家族の介護も入れると
またか・・・となりがちなところですが
何だか今回は観察しどこと満載で興味深いです。

わたし自身も骨折などの怪我をして
介護される立場になったことがあるのですが
介護される側も、する側も
心身ともに快適であるようにすることが
とても大切なんだなぁと改めて実感しています。

体を故障してしまった当事者は
自分を責めたり、状況を責めたりしてしまうと
自分の体を小さく縮めすぎたり、緊張させたりして
過度な負担を自分の心身にかけてしまいがちです。

同時に、ケアをする側も、介護しながら
相手の体勢に自分を合わせて食事をさせてあげたり
体の手当てをしてあげたり、介助をしたり
そのときに自分を屈めてしまいすぎて
体を痛めてしまって疲れさせてしまったり
その結果、心が疲労してしまうことがあったりします。

でも、そんなときにどちらの人にも
アレクサンダー・テクニークを使って欲しいのです。

どんな状況でも、わたしたち一人一人が
身体的にも、精神的にも
存在そのものとしての尊厳を
充分に尊重され、大切にされてよいのですね。

わたしもそのことを以前は知らなくて
介護される側のときも、介護する側のときも
自分を心身ともにいじめながらで毎日きつくて
なんで自分がこんな目に遭わなきゃいけないの?
と思っていました。

でも、アレクサンダー・テクニークを学んで
自分がただここに在るままで
こんなにも尊重されていいのだと
体と意識の拡がる感覚を味わう体験を重ねました。

今、教える側になってみて
以前のわたしに何が起こっていたのか
冷静に、でも温かく見つめられるように
だんだんとなってきています。

その中で、わたしが
アレクサンダー・テクニークを通して
本当に伝えていきたいことは
自分の一生のパートナーである自分自身を
心身ともに手を取り合っていかれるように
それぞれがなっていくことです。

どんなときも、自分を必要以上に責めないこと。
そうしたいときも、自分の体を小さくしなくていいこと。

自分に当たりたいほど辛いときも
それをすることは何の役にも立たないと知っておくこと。

相手や状況を責めたいときこそ
自分の体に戻ってきて、今の自分の体に気づくこと。

自分の体にしっかりと自分がつながって
今この自分と自分の感覚的気づきの体感とともに居られたら
落ち着いて、自分や相手や周りを尊重する余裕を
今までより少しずつ少しずつ持てるようになっていきます。

わたしたちの理想が高すぎて
「正しくあるべき」、「もっとがんばらなくては」、
「~しないと愛されない、充分ではない」と
自分を追い込んで、自分の思考の中の理想と一緒に居て
自分の体という実際の存在を置いてきぼりにすることが
多くの問題を生み出してしまいます。

だからこそ、本当の自分が存在する「我が家」である
自分の肉体に自分の意識を戻してあげたいのです。

そして、体に起こっていることに気がつくことが
「我が家」に明かりを灯すことになります。

今居る自分の「我が家」を愛して
居心地良くしてあげることほど
自分にとって快適なことは無いと思うのです。

だからこそ、自分の体ともっと出会うこと
忘れていたことを思い出したり、知ること
そういったことが大切なのだと思います。

介護をされる人も、する人も
自分の存在を忘れて、大切にしないでいるところから
ほんの少しだけでもいいので自分の体に気づいて
そっとやさしく自分をなでてあげたり
普段気にもかけなかった場所に触れてあげたり
自分のケアをしてあげたら変わるような気がします。

心身の状況が混乱のときこそ
自分の意識を自分に戻して
体にちょっと気づくことだけでも
アレクサンダー・テクニークの
原理をちょこっと使うことになります。

なんだか散らかった内容になってしまいましたが
どうぞ、それぞれの方が自分と仲良く
どんな状況も肯定的に味わいながら
無事に乗り越え、歩めますように。。

長い文章、読んでくださり
ありがとうございました。

Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月16日木曜日

大分から

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


大分に帰ってきて、6日経ちました。
こんなに大分でゆっくりするのは11月の連休の時期ぶりです。


そして、今は少しほっとしたのか風邪を引いています。
風邪の引き始めは、いつも呼吸器にくるのですが今回も肺に。

肺は悲しみや失望を受けとめてくれる臓器だと聞くので
風邪と一緒に肺の中にたまった不要なものがきれいになるといいな
と思って、やさしく養生しています。


ほんとは今日は、別府の劇団「まぜくる」の稽古に参加する予定だったけど
大事を取ってお休みです、とっても残念。。

「まぜくる」は、老若男女、障害者の人も、外国の人も
垣根を超えて「まぜくる」になって表現してみようという集団。
http://jiritsu.junglekouen.com/c15729.html

実際に参加してみると
すべてのことにおいて垣根があるのは
自分の外ではなく内側なのだな
みんな何も変わらない同じ心の通った人間なんだなと
実感できて、すてきだなと感じます。


それから今週末の土曜日は、大分でワークショップです。
http://www.alextech.net/modules/jats/index.php?content_id=395

それまでに、風邪が抜けてくれますように、と祈りながら
体調を観察しながら、色々な養生の実験をしています。


来週はまた東京に出て、火曜日は大学で補講なので
風邪が、のんびり休養を自分に許可してくれたようで
なんだかとても面白いです。


無理しすぎずに、今必要なことだけおやりなさい。
そう体から語りかけられているようで
忙しさの中から、ふと我に帰る体験です。


みなさんも、どうぞ心身ともに温かく
元気に毎日を過ごせますように
大切になさってくださいね。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月6日月曜日

果樹ある生活を夢見る

行き詰ったり、落ち込んだときに
そのことばっかり考えてると余計に落ち込んじゃうから
現実逃避かもしれないけど、果樹ある生活のことを考えます。

庭があって、果樹があって、野菜やハーブも植えて
うじゃうじゃにして雑草とも共生しつつ土壌も豊かにして
コンポストも作って、虫や鳥とも共生しつつ
日々のお手入れや、四季の移り変わりを愛でる。。

広すぎたら手が回らないかもしれないけど
普通に家の庭だったら
広いくらいでちょうどいいのかもしれないし。

いちじくやベリー、柿や杏や梅がなったら
ジャムやドライフルーツやお菓子やパンを作ろう。

軒先を眺めながら、お茶をしておやつを食べたり
のんびりおしゃべりしたり、ぼーっとしたり。

雨の降る日も、晴れる日も木々が生きてるのを感じながら
一日一日を過ごせたら、なんだか元気になれそう。

想像だけでもしあわせになれる。
しあわせになれるなら
いくらでも想像をふくらませよう。

パンを焼いたり、パン用に酵母を起こしてみたり
酵母でケーキやお菓子も作ってみたり
みそや香辛料なんかの調味料もつくってみたり
ちょこっと楽しむための果実酒や
薬草茶をつくってみたり。

自然の恵みを存分に感謝とともにいただいて
いのちをつなぐために生かせたらいいな。

心身の養生も、喜びも自然のなかから。

そういうぜいたくをたくさん味わいたい。
手間ひまかける豊かな味わいをいっぱい楽しみたい。

都市にはない喜びを、たくましくなりながら身につけたら
きっと都市に出てきても揺るがなくて楽なのかもしれない。
それが、本来の人間の姿なのかもしれない。

テクノロジーや通信手段も上手に使って
自分の生活の基盤はアナログに保てたら
ずっと心地いいかもしれないな。

ちょっとほころびがあっても
工夫次第で味わいに変えられる
そんな生活を大いに楽しむような
大らかな暮らしを。

土と植物と動物と人間と
それぞれが心地よく居られる暮らしを。

想像するだけで元気になれる。
それが日常になることを夢見ながら
今の自分の手足を動かそう。



Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月4日土曜日

体験から学ぶことは、自分を癒すこと

どこかで自分を責めている自分がいる。
他者という目線が入ると、とたんにその自分が現れる。

いえいえ、わたしはそんな良いものではありません。
いえいえ、わたしはこんなダメなところばっかりなんです。
いえいえ、わたしは何にもできないんです。
いえいえ、わたしはとんでもなく無能なんです。


そうやって挙げ連ねればきりがないほど、
どれだけ自分を貶め、辱め、批判し、強要してきたことだろうか。

それが、過去の記憶に基づく信念体型から
始まってしまっている習慣的&自動的反応パターン。

だんだん、これをやってる最中に
自分でやってることを意識できるようになってきた分
あー、こんなに自分で自分に無能さを強要してたんだ
と気がついてびっくりします。


「今年の汚れ、今年のうちに」って
どこかの洗剤のキャッチコピーじゃないけれど
自分の習慣的パターンも、今そうやってクリーニング中で
新しい自分になる準備をしているんですね。


ほんとに、びっくりするくらい
自分のもう繰り返したくないパターンがデフォルメされて
日常で日々起こっている。

もうイヤー!!!ってならないと
そこから脱するシフトができないから
強烈に自分にショックを与えてくれてる。

もう、ほんと、笑っちゃうくらい。


こないだは、大分の家で
東京に来る前夜食べた水炊きの鍋の残りを出しっぱなしで
そのまま東京に来てしまって腐らせてしまって
当然、夫に電話でめちゃめちゃ怒られてしまった。

それで、あんまりにも自分が情けなくて
ホントだめだなぁとか、どれだけ自分を責めてるか
どれだけ自分を虐げて罰してるか
そんなことに深々と気づいてしまって
そのあまりのインパクトにたくさんの感情が一気に動いて
気がついたらこれでもかと涙が出てきて泣いてました。


リズ・ブルボーの「5つの傷」を読むとわかるのだけど
わたしには「侮辱」の傷があり、自分を侮辱し、相手を不快にさせるような体験を招き
夫には「不正」の傷があり、相手を責め、自分を責めるような体験を招き
そうやってお互いに自分の傷を浮かび上がらせて
それを癒す必要があるんですよと教えあい、学びあっている。


それもわかってきたら、ありがたくて、これまた泣けて
もう色んな思いと感情がごっちゃになって
泣けて泣けて仕方なくて
久々にポロポロ泣いてしまいました。


こういうのも、過去の記憶のクリーニングなんだなぁと
思えるようになってきたのもありがたいこと。。

ホ・オポノポノの考えとしてのクリーニングは
そういう面で、とても理に適っているなと感心しきり。

常に人には救いの道が用意されているのだけど
それを見つけられるよう、目をふさいでいるものをとりのぞく
それがどれだけ大切なことか実感します。


わたしはヒーラーでもなく、セラピストでもなく
(そう感じたり、思ってくださっている方もいらっしゃると思うし
 わたしもそうなりたいと思っていた時期もあるのですが)
アレクサンダー・テクニークを学んできた
ティーチャー(伝え教える人)だから
習慣の認識から誤用をやめて改善していくこと
として認識してしまうのだけど
そのことと自体が生きるうえでの学習であり
自分を癒すことにつながるのだなと感じます。


やっぱり身を持って、痛かったり、ショックも味わいつつ
その経験から実践し、実験し、学んできたことでしか
人に伝えることができないし、説得力をもたないのだと
痛切に感じながら、時間がかかる過程を自分にゆるしています。


同時に、わたしはやっぱり自分を強張らせて
大人のふりをして生きることが出来ない人間だなと
ドロップアウトすることを改めてゆるす許可を出しています。

自分の中に、習慣的に「他の人と同じようであれ」という
社会教育(奴隷教育)が染み付いているので
そのループから抜け落ちないように
社会から「不完全」で「欠陥している」とされないように
自分に強要し、強制しようとするのが
自分のパターンとして強いからです。

だから、何度でも、いつでも、意識的に
それを外していいんだよとじぶんをゆるすことは
大いに必要で、自分に力とバランスを取り戻させることなのです。


自分のどこかで
「わたしには力が無い」
と無力感や失望を感じるとしたら
本心で望まないことを努力するのに
相当のエネルギーが必要で
生きることにもエネルギーが枯渇する事態が発生します。

だからこそ、現代は病気になる人が多い。
それは、病気になる人がおかしいのではなくて
病気にならざるを得ない社会という集合意識があるから。


だから、一生懸命やっていて病気になってしまったら
自分を責めなくてもいいのだと、わたしは伝えたい。

けれども、それは、病気になった社会が悪い
自分以外のものや環境が悪いのだと責めるのも
何の役にも立たないのだ、ということも伝えたい。


責めることは、力を回復する役には立たない。

自分に力(生命力、可能性、バランス、調和)を回復するには
自分を見つめて、習慣的&自動的パターンを知る必要がある。

そこで、役に立っていない、不快を生み出すパターンを見つけ
やめていくと同時に、快を生み出す新しい在り方を身につける。

それを練習していくことでしか、本当の力は回復しないし
時間をかけ、労力をかけて、それをするのがいちばんの近道。


解決方法は、未知に飛び込むことだったり
いちばん不可解なことをうけいれることだったりする。

でも、それが、学ぶということ。

学ぶことは、不可知のカオスに飛び込むことでしか得られない。
そこに飛び込み、混乱と不確かさにまみれて初めて
発見という喜びと、癒しという学習が起こる。


だから、あきらめないで
途方に暮れたときほど、未知に飛び込んでみる。

わけのわからなくなる混乱ほど
コントロールという緊張を手放すいいチャンスはない。

手放した途端、着地してる。


安定するのは、不安定になることをゆるしたときだけ。
不安定をゆるさないかぎり、安定することはありえない。

そう、体の構造も、心も教えてくれてるのを
そろそろ思考もコントロールしたがりをあきらめて
手放してみたらどうなのだろう。


そうやって、それぞれがほどけてくることができたら。。

まずは自分からそれをはじめようと思い、実験しています。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年12月3日金曜日

とことん放牧

まだ自分にゆるせてないことがいっぱいあるなぁと感じる。

わたしはどこまで自分をゆるす気なのだろう。
あまりにも膨大すぎて途方に暮れることもある。
でも、それも今の自分の決めたこと。
途方に暮れてる暇は無い。


自分をゆるすことは、誰かをゆるすことでもある。
それは、同時に過去をゆるすことでもある。

血色がなくなるほどぎゅっと力いっぱい掴んでいた手を離して
手の中に血流が戻ってくると同時に、空という自由を手に触れるような
そんな作業をくりかえしている。

今までどれだけのことにこだわってきたことだろう。
今までどれだけの思いに縛られてきたことだろう。
今までどれだけのルールに囚われてきたことだろう。
今までどれだけ苦しんできたことだろう。

自分をできなくさせてきたのは、自分だ。
自分を無力にしてきたのも、自分だ。
自分を憎み憎まれるように仕組んできたのも、自分だ。


だからこそ、性も根も尽き果ててしまってきたんだね。
そんなに握り締めるためにエネルギーを使ってきたなんて
そりゃ疲れないほうがおかしいっていうもんさ。

だから、からだにそれが出ていた。
かつてあった、めまい、吐き気、頭痛、耳鳴り、痛み、強張り、緊張、凝り。

それは、みんな自分でつくりだしていたもの。
ゆがみも、症状も、苦痛もみんなそう。

もう充分味わいすぎるほど味わってきたから、もういいね。
若いのに、いつも青白い顔して、具合悪くて、倒れていたけど
もう、そんなところからは、もう何も受け取れるものはないよ。

今、ただできることは
残っている痛みや強張りから
メッセージを受け取ること。

そして、手放して見送ること。


心の痛みは、体の痛み。
心のゆがみは、からだのゆがみ。

そんなの偏見だって
ずっと避けて聞きたくなかったけど
実感してみて、ほんとだなぁって今は思える。


すべては自分の傲慢さが生んでいた幻想。
それを信じて酔っていたのがわたしの現実。

もうこれからは、目を覚ましてよく見ていこう。
見たくなかったものも、受け入れたくなかったものも
よく見てみるうちに可愛く思えてくるかもしれない。

最近、虫を可愛く思えるようになったように
見えるものへの感じ方が変わって来るかもしれない。


欲張るのは、自分への愛が足りていなかったからだった。
だから、そんな色んなことが起きていたんだね。

ごめんよ、わたし。
見捨てておいた、わたしが間違ってたよ。
ゆるしておくれ。

それでも、こうしてそばにいてくれた
自分のからだはえらくて、ありがたい。

こんなに愛してくれる存在が居たのに
いつも忘れてしまうのが、傲慢さ。。

からだが自分を愛してくれるように、自分を愛そう。
からだが寄り添ってくれるように、自分に寄り添おう。

そうして、自分全部と愛し、愛されて
トラのバターみたいに、とろけて交じり合って
いっしょくたになれたら
新しい自分が始まるんだろうな。


小競り合いじゃなくて、すなおなやりとりを。
批判的な目線じゃなくて、愛のある見守りを。

自分とそうやって重ねていけたら
きっと世界が変わってくる。


できない、こわいと避けてきたことを
そうやって、ちょっとずつ取り組んでいけばいい。

誰かのやっているように、誰かのような速さで
わたしはやることができないからこそ
ほかの誰でもない自分ができるように
自分のできるやり方とペースを贈り物にして
とことん自分にやらせてあげよう。


それしかできないの?とか
まだそんなことやってるの?とか
外側からの目線はもう気にしなくていい。

それを気にすることは、何の役にも立たない。

ゼロから始める、幼稚なくらいのところからやりなおす。
それができることは、自分へのものすごい贈りものだ。

ただすなおに、自分にできないことを認めながら
そこまで戻っちゃったら戻りすぎじゃない?と思えるくらい
根本の根本まで戻るほど、後の変化はきっと大きい。

その可能性は未知だけど、信じて歩めば
必ず道がひらけるから。


外側をつくることは、早くて立派に思えるけれど
ほんとは、内側からできあがってくるのを待つ方が
ずっとずっとパワフルで可能性が無限大。

信じて待つのは、骨が折れるし、心もくじけそうになる。
でも、そこをこらえて、じっと待つほど素晴らしいものが出来上がる。
生命は、そうやっていつも育まれて生まれてくるのだから。

特別なものほど時間と労力がかかるから
自分にそれをゆるしてみよう。


自分には、そんな価値も時間も労力ない、と思うとしたら
それでは何も成長せず進歩しないことや
既存の型で済ませようと望んでいるのと同じこと。

ままならない現状に引きずられ
コントロールされているところから抜けるには
いったん止まって戻ってみることがいちばんの近道。

馬鹿だと笑われても、阿呆だとののしられても
みんなと信じてるもの、見えてるものが違うのだから
風当たり強くても仕方ない。


大量生産されたひとつとして生きたいのではなく
世界に一人しかいない自分をありのまま生きたいなら
なおさらのこと。

あきらめたら、そこでの進化はもう生まれない。

だからこそ、とことんまでに、自分にやさしく。
外がどんな天気でも、内に秘めてたものを放牧してみる。

時には逃げながら、時にはかわしながら
自分の大切なものをとことんやさしく可愛がろう。

2010年11月24日水曜日

自由に自分を表現する身体になろう

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


気づけばもうすぐ12月!
そして、今はもうサンクスギビングの季節!
一年があっというまで早くて濃くて驚きます。

今年はどんなことがありましたか?
どんなことを喜び、楽しみ、味わいましたか?
どんなことを乗り越え、どれだけがんばってきたでしょうか?


わたしは、今年は自分を知る年となりました。
改めて自分を見つめなおし、受け入れなおし、やりなおしたような
まるで伸びすぎて形が崩れた植栽を剪定しなおすような
そんな年だったなぁと振り返っています。

それぞれの出来事や、それぞれの自分が
差別されることなく、大切にされてよいのだと
初めてそれぞれが尊重されることに出会った年でもありました。


そんな中でも、大きな喜びを与えてくれたもののひとつ
母校の日芸で演劇の生徒に授業を教える機会も
おかげさまで今年で3年目になりました。

3年目の今年の授業は、今までになくリラックスして楽しみながら
わくわくハラハラしつつ実験的でクリエイティブな体験です。

授業で、ゲームをしたり、体操したり、眠ったり
パンを食べたり、ミカンを食べさせあったり、椎の実を味わったり
五感をフル稼働させて、人間について様々な学び方を遊びました。

明日も、また午前中に授業で、課題提出の日でもあります。
形式自由で何でもござれの提出形式なので
何が飛び出すか、飛び出さないで何もなしか、楽しみです。


そんな大学での授業のような自由な時間を
いろんな人にも味わってもらえたらいいなと思って
12月4日(土)10:15~12:45にワークショップをします。

演劇の稽古場によく使われる西新宿の花伝舎という
元小学校の校舎で開催します。

わいわいと動き回りながら、体の使い方を学んで実験したり
五感をつかって子どものように自由さを思い出すエクササイズをしたり
心身を解放して表現する喜びを楽しむ時間を準備します。

あんまり難しいことを考えずに、身体にやさしい運動をしたり
わいわいと自分の内側が喜ぶような遊びをすると思っておいでください。


ワークショップの名前が『AT演劇ワークショップ』となっていますが
人前で演技するように強制することもありません(笑)。

そんなわけで、経験不問です。


師匠も走る忙しい時期とは思いますが
より楽しんで快適に12月を駆け抜けるために
わくわくを感じた方に、ぜひご参加いただけたらな、と思います。




AT演劇ワークショップ

12月4日(土)10:15~12:45 @西新宿・花伝舎 本校舎1-1

参加費:一般 3000円/学生 2000円(当日学生証提示)
(11月30日までにお申込みの方は、500円割引!)

※料金は当日会場にてお支払いください。

お申込:studio.saltia★gmail.com(★を@に変えて)宛に『AT演劇WS申込』のタイトルで
     (1)~(7)の内容をお書き添えのうえお送りください。


(1)お名前(ふりがな)
(2)携帯電話連絡先/携帯メール
(3)PCメールアドレス
(4)ご住所
(5)生年月日
(6)ご職業
(7)ご同伴者のいらっしゃる場合は、その方のお名前
(8)お申込の理由


★このワークショップでは、寝転がったり 体操をしたりと、動き回ります。
腕や脚のつけ根をしめつけない ジャージなどのゆるやかな服装でいらしてください。
(ジーパンやスカート、短いボトムスやタイトな服は避けた方が安心して動けます。)

★寝転がるのに、ヨガマットやバスタオルなどを持参されると快適です。

★水分補給のため、お好みの飲み物をご持参ください。


※当日参加は、事前に確認のお電話をください。
(090-3340-4264 オカナオ 朝8時~)

※3日前以降のキャンセルは、参加費の半額を申し受けます。

※無断キャンセルは、参加費全額を申し受けます。

※キャンセルせずに、代わりの人が参加する場合は
ご一報くださるだけでOKです。


Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年11月22日月曜日

頭脳を浪費しないで、知性をつかう

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


このところ、頭脳を浪費しないで、知性をつかう
という練習をしていました。

というより、結果的にそうなっていたんだなぁ
とさっき気づいて
面白い流れがやってきてるぞ!と
静かに今喜んでいるところです。

なんでそういうことに気がついたのか、というと
思った以上にうまくいく、というのでしょうか
何も思いもしなかったのに流れがスムーズ
という展開がこのところ多いのです。


今までは、思ったようにならなかったりとか
思ったのには足りないけどまぁいいかとか
そういう展開を味わっていました。

頭で予想(心配、不安、期待、予測など)しては
未来をコントロールしようとして
一生懸命がんばっていたんですね。
(まさに、頭脳の浪費。。)

言い換えれば
「~にならないように、これをする」とか
「~は嫌だから、それを避けるためにこうする」とか
行動の動機が否定形から入っていたり
ジャッジ(批判や断定)から始まっていたり
自分の行動の言い訳をしたり
そいういう選択が多かったのです。

それは言ってみれば
かつての周りの大人たちがしていた行動のくせ。
例えば、怒られないように、とか
失敗しないように、とか。

パターン化したその思考と行動が『当然』
と思っている環境に居たので
無意識にわたしもそういう風に
自分を自動的に行動させていました。


でも、それって
自分の使い方の誤ったパターン
誤用なんですね。


望んでいることのために自分を使う
というのが、本来の自分の使い方なら
望んでいないことのために自分を使う
というのは、誤った自分の使い方。

だから、本当は望んでいないことを避ける
ということを動機にすることは
消極的に『望んでいないことを望んでいる』
ということになってしまう。

なぜなら、望んでいることが
『望んでいないことを避けること』であって
その中には望んでいることは一切含まれていない!

むしろ
望んでいないことに一旦出会ってから
それを避ける
ということを望んでいる
というオーダーを
無意識に出してしまっている。

ここは、とんでもなく大きな違い!


と、ものすごいヒントを書いてしまいましたね。

もうここまでで
わたしが何をお伝えしようとしているか
きっとお分かりの方も多いかと思いますが
自分の行動の無意識の動機や
普段何気なく繰り返してる思考のなかに
自分をどう生き、行動するかの手順や
システムとなる信念がプログラミングされていて
それに基づいて自分が自動操縦されています。

だから、自分をどう使っているか
自分全体を総括した使い方を見直すことは
ものすごく大切なことなんですね。


わたしの教えている
アレクサンダー・テクニークは
誤った自分の使い方を気づきとともに認識して
本来の自分の使い方を学習していく方法
なのですが
自分で自分を自在に
気持ちよく使えるように在るために
不要になった古い習慣パターンを脱いで
新たな自分に出会いながら
やさしさをもって自分を育む
可能性のレッスンです。

なのですが、実はよく
アレクサンダー・テクニークは
姿勢や体のことをやるボディワークだよね
とか言われたり
思われたりすることがあるのですが
じつは
体のことだけを取り扱うのではなくて
思い込みの誤用も見つめて
その結果、自分の日常にどう影響するか
動き方や心身の反応パターンなど
多岐にわたって観察し
それを
自分が本当に心地よく
心と体と自分のすべてが機能し
自分のすべてが一心同体で
自分の動きを満喫できるように
そのしくみを学んで
使えるようになる練習をする
というものなのです。

というのも
アレクサンダー・テクニークでは
人間とは、体も意識も感情も
まるごとで機能する有機体
(オーガニックな存在)である
とみなしているから。

なんだか扱っているテーマが
人間の深遠さだったりして
くらくらしてきちゃいますね。。

わたしも、ここまで書いてみて
よくわからなくなってきたので
ちょっとはじめに戻ります(苦笑)。


そんなわけで、冒頭に書いた
「頭脳を浪費しないで、知性をつかう」
というのも
自分の『考える』という行為における
自分の肉体や意識の使い方の
誤用というエネルギーの浪費を改めて
流れるように快適に使えるような
新しい自分の使い方へ切り替える
ということ。

それはどういうことかというと
すでに使い古された中で考えるのではなく
新しい可能性を受け入れる余地をつくって
やってきたインスピレーションや
発見した『!』についていくということ。

それが、わたしたちに与えられている
本来の知性という機能の使い方
なのではないかなと
このところの流れを味わう中で感じました。

これについては
まだまだ味わいながら探求して
もう少し理解が深まるのを温めたいと思います。
(これ以上、知性についての説明が今は出てこないから。)


というわけで
また『!』がたまって流れ出したら
ここに書いてみたいなと思います。

長くなってしまいましたが
読んでくださり感謝です!

Sudio Saltia* のサイトへはこちらからどうぞ :)

2010年11月16日火曜日

可能性

あたまをほぐすからだのレッスン
アレクサンダー・テクニークの Sudio Saltia* オカナオです。


本日、大分から東京に移動してきました。
バス⇒飛行機⇒電車での合計4時間の移動に
ずいぶん慣れてきました。

思えば、中学生の頃にぼんやりと将来を思い描いては
ノートやスケッチブックなどによく書き出していたのですが
「手に職をつけて、身一つで旅先でも仕事も旅も楽しむ」
なんてことを書いていたのを思い出します。

アレクサンダー・テクニークの教師トレーニング生のころも
海外から旅して東京や各地に教えに来てくれる先生たちや
地方からはるばる学びに来ていたり
地方のクラスまで追っかけて学びに行く
熱意のあるクラスメイトに囲まれていて
いつしか、旅することが身近なことになりました。

そして気づいたら、母校の大学で教える機会を頂いて
夫の仕事で、ハワイ在住を経て
大分在住となったことで、飛行機通勤することに。。

乗り物酔いしやすいから大丈夫か?とか
夫と猫を残して家を定期的に不在にするのは大丈夫なのか?とか
色んな懸念も、家族をはじめ
周りの人たちの協力で何とかます。

わたし一人の力では実現できなかった夢を
母校の大学というバックアップで叶えられる機会を与えられて
わたしはなんて幸せなんだろうと感じると同時に
どうしたらお役目を果たすことが出来るだろうかと試行錯誤中です。

プレッシャーではなく、ただ今のわたしにできることを
できないなりにでも最大限の努力をしていくこと。。

失敗した~・・・と思えて落ち込むこともあっても
上手にできなくてダメぶりを露呈してしまったりしても
思うようになかなかいかなくて焦って不安になったりしても
やっぱりやりたいことが今できているこの幸運とともに
今の自分から始めるしかないし、始めたらいいんだなと
日々気持ちを持ち直しながら生きています。

完璧じゃないけれど、未熟なところ満載だけれど
バランス悪いところも、恵まれているところも
全部まるごとひっくるめて
可能性とともに歩んでいけることは
やっぱりしあわせ。

人と比べてしまうと、自分に批判的になりがちだけど
過去の自分と比べることで、自分の歩みが認められる。

まだのところも、もうこんなにって驚くところも
色んな可能性のバリエーションを味わって
予想も期待も手放して超えていこう。

それが可能性なのかもしれないな
と思うこの頃です。


Sudio Saltia* のレッスンはこちらからどうぞ :)